第29話

文字数 1,601文字

 某美術館に着くと、催しは川瀬巴水展(かわせはすいてん)だった。浮世絵は好きだが、江戸時代に流行した作家たちくらいしか知らなかったから驚いた。

「川瀬巴水って、あまり知らないんですけど…」

 掲示板に出ている絵は風景画で、清らかな印象の、心に響いてくる感じがした。

「俺もね。最近知ったんだよね。テレビでたまたま観て。明治生まれで近代の浮世絵画家だから、江戸時代の浮世絵とは一線を画す感じ。繊細な雰囲気がいいと思ってさ。ちょうどやってるのに気づいたものの、もう終わる所で。だから、こんな急に誘っちゃってごめんね」

 大蔵と絵を観るのは二度目だ。
 前回は柊子の方から誘った。
 フェルメールが好きで、オランダ絵画展が開催されたので、一緒に鑑賞したのだった。

 大蔵は特に美術鑑賞が好きなわけでは無かったが、気軽に声をかけたら二つ返事で了解だった。
 デパートなどでの展覧会は見た事があったが、美術館に来るのは初めてだと、物珍しそうに館内を見回していたが、観終わった後、「年を取ってくると、こういうの、いいねぇ」としみじみと言うので、まだ四十二歳なのにと半ば呆れたのだった。
 だが喜んでもらえたのは嬉しかった。

 チケットを購入して中へ入ると、巴水の履歴が書かれたボードがあった。

 明治生まれで、大正・昭和と活躍した風景浮世絵師。

 衰退した日本の浮世絵を復興すべく、新しい技法で新版画を確立した、近代風景版画の第一人者。国内よりも海外の方が人気が高く、ジョブズもそのファンの一人らしい。

 風景版画と言えば、葛飾北斎の富嶽三十六景や広重の東海道五十三次を思い浮かべるし、柊子も好きな浮世絵だ。明治維新と共に多くの日本の芸能が廃れたが、浮世絵もそのひとつだと思っていた。

 富国強兵、殖産興業で、外国に追いつけ追い越せみたいな世相になったから、日本的な文化を楽しむ心持ちも衰退したように思っていたが、こうやって続いていたんだと自分の浅い認識を改めさせられた思いだった。

 しかも、その版画の素晴らしさに柊子は茫然と立ち尽くした。
 北斎の躍動感や広重の緻密さと、全く違う作品が、空間を占拠していた。

 とても繊細で、心を打つほど抒情的で美しいとしか言いようがない。
 特に夜を描いた青い作品に心が震える。

(なんて綺麗なんだろう…)

 絵画鑑賞が好きで、古今東西の絵画をこれまで随分と観てきたが、これほどの感動を与えられたのは初めてだ。

 とても深い青が、夜の静寂(しじま)が、忍び寄って来る。
 色々な青が重なり合っているのに、透明な空気感が漂っていて、柊子を包んでそこへ連れて行くような思いがする。

 柊子はその青に強烈に惹きつけられた。
 ずっと観ていたい思いに駆られた。できる事なら、この絵が欲しい。自分の部屋に飾って永遠に観続けていたい。

「柊子ちゃん?」

 いつまでも動かない柊子に、大蔵が声を掛けてきた。

「大丈夫?」

 気づくと涙がこぼれていた。
 なぜだろう。涙腺が弱いのは昨日の事があったからか。

「あ…、ごめんなさい。なんだか、すごく胸が洗われると言うか。感動しちゃって」

 悲しいわけでも、寂しいわけでもない。そういうネガティブな心持ちではなく、その清らかさに本当に心が洗われるような気持ちになってくるのだった。
 感動で涙を流すなんて生まれて初めての事で、柊子自身も戸惑った。

 大蔵が柊子の頭を軽くポンポンとはたいた。

「巴水の絵、いいよね。俺も同じ。胸に深々(しんしん)と沁み込んでくる感じがするよ。だから直に観たかったんだ…」

 観た者の琴線に触れ、心を揺さぶる絵画という存在は凄いなと改めて柊子は思った。
 何を見てどう感じるのかは個人差が大きくて千差万別だ。言葉では言い表せない何かが訴えて来る。その何かは受け手次第だ。

 じっくりと長い時間をかけて巴水の世界に浸り、画集を買って外に出た時には既に午後二時を回っていた。
 雨は上がっていて、湿度の高い空気が体にまとわりついてきた。

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