第38話

文字数 1,343文字

「今日はとても楽しかったよ」

 近くのホテルで水族館での事を話しながら楽しい夕食を終え、自宅に戻って来た。

「君の淹れたコーヒーが飲みたい」

 そう言われて、柊子は久しぶりにコーヒーを淹れた。
 ここ最近、帰りも遅かったし、色々あって気持ち的にコーヒーを淹れて持っていく事をしていなかった。

「うん…。やっぱり美味しい。…今日は本当に良かった。水族館も最高だったし、何より君と一緒に見れて良かった。また行きたいよ」

 穏やかな顔で言われて、柊子も頷いた。
 貴景と同じように柊子も思ったからだ。

 二人で過ごす穏やかな時間が、柊子の心に沁みてきた。

 こういう時間をいいなと思ったからこそ結婚したのに、と改めて思う。

 柊子が真木野の事を気にし過ぎるのがいけないのだろうか。
 貴景が言う通り、困っているから助けるだけの相手として、割り切るしかないのだろうか。

「柊子さん…」

 コーヒーを飲み終えた貴景が、柊子にそっと手を伸ばしてきた。
 その瞳には熱情が揺れている。
 唇を合わせ、火照った体を重ね合わせながら、
 ――どうか邪魔が入りませんように。
 そう切に願う柊子だった。


 朝、目が覚めたら目の前に、自分を見つめる貴景の顔と遭遇した。
 同じベッドに寝ていても、夜が遅い貴景は柊子が起きる時にはいつも眠っている。

「おはよう」

 にっこりと笑う顔が眩し過ぎて、恥ずかしくなってきた。

「おはよう…ございます…」

 消え入りそうな声になった。

 赤面して俯く柊子の頬に手を当てて、貴景は軽くチュッとおでこに口づけた。
 ドキリと大きく心臓が鳴る。

 こんな朝を迎えるのは初めてだった。

 甘ったるい空気が充満しているのを振り払うように、柊子はガバリと布団を跳ねのけて起き上った。

「会社に行かなきゃ…」

 事実だが、陳腐な言い訳のようにも感じる。

「そうだね。じゃぁ、君が支度をしている間に僕が朝食の支度をするよ」

「え?でも…」

「いいから」

 とてもご機嫌な様子だ。
 そんな貴景に、柊子の胸が熱くなってくる。

 和やかな朝食の時間を共にし、貴景は出勤する柊子を玄関まで見送ってくれた。

「今日は、何時頃に帰ってくる?」

「あ、ごめんなさい。そろそろ月末に入るから暫く残業になるの」

 これまで当たり前のように冷ややかに告げていた事が、今朝はどうにも申し訳ない気持ちと残念な気持ちが混ざってくる。

 貴景も柊子の言葉に顔が曇った。

「そうか…。しょうがないね。仕事は疎かにはできないからね。頑張って」

「うん…」

 寂しそうな微笑を口辺に浮かべて、貴景は軽く手を振った。
 柊子もやんわりと手を振り返す。
 後ろ髪が引かれるような思いを感じながら、柊子は玄関ドアを閉じた。

「はぁーっ」

 思わず大きな吐息が洩れる。

 一体これは、何なんだ。どういう事なのだろう。

 二人の間に漂う空気が、なんだか途轍(とてつ)もなく甘いと感じるのは気のせいだろうか。
 確かに事後は、それなりに甘ったるい雰囲気になるのは最初の時からだが、それも一時(いっとき)の事だった。
 こんな朝は初めてだ。

 朝食の間も、貴景はチラチラと艶めいた視線を飛ばしてきていた。

 ――あの人、どうしちゃったんだろう。

 こちらもそれに当てられてしまっている。

 だが、柊子に纏わりつく甘い空気も、駅へ着いた時にはすっかり消えていた。


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