第80話
文字数 2,482文字
盆休みに大蔵と柊子が一緒にいる時に、大蔵は篠山から名刺を貰ったが、大蔵の方は持ち合わせていなかったから、相手は大蔵の連絡先は知らない筈だった。
それならどうやって連絡してきたかと言えば、会社に直接電話してきたのだった。
柊子が同じ職場の先輩、と紹介したから、テクニカルライティングの大蔵春久さんに繋いで欲しいと言っただけで通じた。
「柊子さんの居場所をご存知ないですか?」
単刀直入に訊いてきた。
「友達と旅行に行っているとしか、聞いてませんが」
「それは、どこですか?」
「さぁ、そこまでは。急に決まったみたいでね。本人からも、詳しく聞いてないし」
「仲良しなのに、ですか?」
しつこく、どこまでも食い下がってくる相手にイラついた。
「仲良しでも、聞いてないものは聞いてない」
思わず口調が強くなる。
「…そうですか。それが本当だとして、大蔵さんはおかしいと思っていないんですか?突然過ぎるでしょう」
その言葉に大蔵は鼻で嗤う。
「そうだね。おかしいよね。そんな突飛な事をする子じゃないから、余程の事があったのかもしれないねぇ」
相手がムッとしたのが、電話越しから伝わってきた。
「…そう思う理由はなんですか?」
「そんな事は分からないよ。俺に聞くより遠峰先生に聞いた方がいいんじゃないのかな。仮にも夫婦なんだから」
「…それが分からないから、あなたに聞いている」
潰れたように声を押し殺している。それが不思議に思えた。
「えっと、篠山さんでしたっけ。どうしてそんなに、躍起になってるんです?あなたには関係無い事では?」
暫く逡巡しているような沈黙の後、篠山は言った。
「僕は編集長なので、担当作家が困っていれば助けるのが仕事です。それに彼とは個人的にも付き合いがあるので、放っておけないんです」
そして、苦しそうに話した内容が真木野の件だった。
『友達と旅行に行く』とLINEに残しただけで、一切の連絡を絶った柊子を、貴景は必死に探していた。
会社は勿論、柊子の実家へも足を運んで事情を話すが、その手掛かりが掴めず消沈していて、仕事にも影響が出ていると言う。
そこへ持ってきて、真木野から単身赴任の夫が浮気していると泣きつかれた。
東京へたまにしか戻ってこないのは、忙しいとか時間がかかるとか、交通費が高いとか言われて納得していたが、本当の理由は女がいたからだったと言う。
それがどうして分かったのかと言えば、たまたま二人が一緒にいる所に遭遇したからだそうだ。
夫は、何だかんだと理由をつけて東京へ戻って来なかったくせに、ちゃっかり女と上京してデートを楽しんでいたらしい。
こちらはワンオペで大変な思いをしているのに、と夫を責めたら、お前には助けてくれる色男がいるだろう、と言い返されたと言う。
「もうあんな人、いらない!別れるっ。そうしたら先生、私と再婚して?タカちゃんの本当のパパになって!」
真木野に迫られて、貴景は愕然としたそうだ。
「…という話なんだ。だから柊子ちゃん。もう潮時かもしれない」
「おいおい、待て待て」
柿原が大蔵を遮った。
「大蔵の話は、よく分かったよ。だがな。それはあくまで伝聞だろう?遠峰さん自身の気持ちとか考えはどうなんだよ。それを聞かずに、もう潮時とかって決めつけるのは時期尚早だろうが」
大蔵は柿原を睨みつけた。
「もともと、アシスタントは家族のようだったじゃないか。相手に夫がいたから本当の家族になれなかったんだから、これ幸いだろう。柊子ちゃんは解放されていい筈だ」
「だからっ。なんでお前は、そう決めつけるんだよ。本人と直接話したことだってないんだろう。遠峰さんの事は、全部コイツからの伝聞だろう。二人にしか分からない事だって、ある筈だろうが」
「まぁまぁ二人とも。もう少し落ちついたらどうですか?」
中村の言葉に、柿原と大蔵は口を噤んだ。
「大蔵さん。その、アシスタントの話はびっくりですけど、それで編集長の方は、どうして柊子ちゃんの行方を捜しているんですか?」
「友人の為と言っていた。…きっと、アシスタントと再婚するのに、柊子ちゃんと離婚する為だろう」
その言葉が柊子の胸に突き刺さった。
もう離婚するしかないのかも、と思いながら決断できずにいた。
なぜなのか。
多分、好きだからだろう。
少ないながらも、二人の時間が好きだった。
胸がキュンとする瞬間が幾つもあった。
柊子が泣きそうになっていると、中村が厳しい顔つきで大蔵に言った。
「大蔵さん。相手ははっきりと、そう言ったんですか?」
「…いや。そこまでは。だが、きっとそうだろう」
「でも、遠峰さんは、アシスタントの浮気問題が起きる前から、柊子ちゃんを必死に探してたんじゃないんですか?」
「そうらしいね…」
「チツ!」と柿原が舌打ちした。
「お前、無責任に離婚を勧めるな。お前自身だって、いつまでも離婚しようとしないクセに、人の事を言えるかよ」
柿原の投げつけてきた言葉に、大蔵が驚いたように、目を剥いた。
「お前、ずるいぞ」
大蔵は顔を歪めると、横を向いた。痛い所を突かれたか。
「おい、いいか。別れるにしろ、別れないにしろ、いつまでもこのままじゃダメだ。逃げ回っていても埒が明かないぞ。まずはしっかり話し合え。考えるのはそれからにしろ」
「でも…」
「でも、じゃない」
「そうよ、柊子ちゃん。このまま何もせずに壊れるなら、壊れるのを覚悟でぶつかるべきよ。それに、壊れるとは限らないでしょう?」
その通りだと思う。思うが、怯えた心が動こうとしない。
「お前、本当にいいのか?お前が逃げている間に、アシスタントの女に取られるぞ。それでいいと思っているなら、さっさと会って離婚届に判を押してこい!嫌だと思っているなら、ハッキリとそう訴えて来い!」
啖呵を切るように柿原が言った。
その姿がとても頼もしく見えた。
こんな風に、きっぱりと意見を言える人なんだ…と、尊敬の眼差しになる。
――ほんと、いい上司だな。
柊子は覚悟を決めた。
「わかりました。一先ず家に帰ります」
柊子の言葉に、一同は安堵したように柔らかい表情になった。