第37話
文字数 1,847文字
どこか行きたい所があるかと問われ、柊子は「しながわ水族館」と答えた。
大森海岸駅の近くだ。
川瀬巴水の浮世絵でとても気に入ったのが大森海岸を描いたもので、すぐに思い浮かんだ。元々水族館は好きな場所でもあった。
「凄いね。まるで都会の中のオアシスみたいだ」
水族館なんて子どもの時に訪れて以来、来たことが無いと言う貴景は、目を輝かせていた。
「え?そうなんですか?あまり興味が無かったとか?」
柊子からすると不思議に感じる。
「まぁ、そう言えなくもないけど、機会が無かったって事かな。僕の周囲で水族館に興味を持ってる人間がいなかったし、僕も早くから物書きをしてたから、完全なるインドア派だし」
少し照れくさそうに微笑んだ。
「でも…、例えば彼女とのデートとかって、割と定番な方じゃないですか?水族館とか遊園地とか、テーマパークとか」
「ああ、なるほど」
「…?」
貴景の返事を不思議に思って、その顔を見やる。ちょっと考え込むように視線が宙に漂っていた。
「こんな事を君に言うのも、ちょっと気が引けるんだけど、まぁ有体 に言ってしまえば、今まで彼女らしい人はいなかったんだよね」
「へ?」
いやはや。なんだそれは。嘘だろう。
この期に及んで、そんな事を言うとは。
絶対に信じられない。
「えぇーと確か、貴景さんって三十五歳、でしたよね?」
「そうだけど…、なんで今更…」
「いやだって、二十代前半とかならまだしも、三十五歳で…。しかも、あなたって誰もが認めるイケメンじゃないですか。信じられないですよ」
イケメンである故に、メディアから出演依頼も来るんだろうし、ロマンティックな小説をイケメンが書いているからこそ、女性に圧倒的な人気があるんじゃないのか。
確かにその作品は、著者がイケメンじゃなくたって良い物だとは思うが、イケメンである事が人気に拍車をかけているのは、間違いないだろうと柊子は思っている。
「彼女いる無しと、イケメンである事って関係あるの?」
口調に少し批判めいたものが感じられた。
「だって、モテるでしょう?どう考えたって」
「それは君の偏見だよ」
「いやだって、実際に…」
二人連れ立って歩いている今だって、あちこちから女性の視線を感じる。
たまにテレビに出ているから、もしかしたら見知っているのかもしれないが、柊子が見る限り、ステキな人~、はぁと♡、って顔をしている。
「それより、凄いね。東京湾ってこんなに豊かな海だったんだね。昔の話は聞いてはいたけど、実際にこうやって見ると感動するよ」
貴景の瞳がキラキラしていて、感動している顔がいつにも増して綺麗だ。
柊子も改めて周囲を見渡す。
自然と水と生き物が美しくて素晴らしい。
巴水の青とは違う青だが、清涼感がひしひしと伝わってくる。
この日、いきなり梅雨が明けて一気に暑さを増してきたが、ここだけが別世界のようだ。
川と海と干潟で豊だった海。
生活が便利になるのは有難いが、豊かな自然を破壊してまで追求する事でもないのではないか。共生できる道はきっとある筈、いやあって欲しい。
そう感じさせるコーナーだ。
イカと蛸の凄い吸盤に圧倒されて、トンネル水槽へと差し掛かった。
「うわぁ…」
圧倒されている貴景を見て、微笑ましくて思わず笑みがこぼれた。
「凄いよ、凄いよー」
作家とは思えないボキャブラリーの貧困さだ。
「海の中にいるみたいだ…」
貴景が柊子の手を取った。
ビクリとしたら、すかさず指を絡めてきてガッチリと握られた。
(え?恋人繋ぎ?なんで?)
そりゃぁ確かに夫婦だが、普通にカレカノだったわけでもなく、二人の間に恋愛感情なんてない筈なのに。
そっと貴景を伺うと、上方に顔を向けていて表情が見えない。
「なんだかさ…」
呟くような声が上から落ちてきた。
「海の底にいて、水に揺られて漂っていて、どこかへ攫われてしまうような妙な錯覚に襲われてきた。だから、手を繋いでいないと離れてしまうような気がするんだ」
柔らかな声音が柊子の胸をそっと撫でたような感じがして、柊子はそんな貴景を自然に受け入れていた。
『手を繋いでいないと離れてしまうような気がする』
それは返せば、離れたくないと言っているように聞こえた。
――ああ、やっぱり、この人はズルい。
何を考えているのか、柊子をどう思っているのか、サッパリ分からないのに、時折り見せて来るこのズルさに、離れかけても再び引き寄せられてしまう。
ゆっくり歩いたトンネルも終わりが来る。
抜けた後も、貴景は手を離さなかった。
大森海岸駅の近くだ。
川瀬巴水の浮世絵でとても気に入ったのが大森海岸を描いたもので、すぐに思い浮かんだ。元々水族館は好きな場所でもあった。
「凄いね。まるで都会の中のオアシスみたいだ」
水族館なんて子どもの時に訪れて以来、来たことが無いと言う貴景は、目を輝かせていた。
「え?そうなんですか?あまり興味が無かったとか?」
柊子からすると不思議に感じる。
「まぁ、そう言えなくもないけど、機会が無かったって事かな。僕の周囲で水族館に興味を持ってる人間がいなかったし、僕も早くから物書きをしてたから、完全なるインドア派だし」
少し照れくさそうに微笑んだ。
「でも…、例えば彼女とのデートとかって、割と定番な方じゃないですか?水族館とか遊園地とか、テーマパークとか」
「ああ、なるほど」
「…?」
貴景の返事を不思議に思って、その顔を見やる。ちょっと考え込むように視線が宙に漂っていた。
「こんな事を君に言うのも、ちょっと気が引けるんだけど、まぁ
「へ?」
いやはや。なんだそれは。嘘だろう。
この期に及んで、そんな事を言うとは。
絶対に信じられない。
「えぇーと確か、貴景さんって三十五歳、でしたよね?」
「そうだけど…、なんで今更…」
「いやだって、二十代前半とかならまだしも、三十五歳で…。しかも、あなたって誰もが認めるイケメンじゃないですか。信じられないですよ」
イケメンである故に、メディアから出演依頼も来るんだろうし、ロマンティックな小説をイケメンが書いているからこそ、女性に圧倒的な人気があるんじゃないのか。
確かにその作品は、著者がイケメンじゃなくたって良い物だとは思うが、イケメンである事が人気に拍車をかけているのは、間違いないだろうと柊子は思っている。
「彼女いる無しと、イケメンである事って関係あるの?」
口調に少し批判めいたものが感じられた。
「だって、モテるでしょう?どう考えたって」
「それは君の偏見だよ」
「いやだって、実際に…」
二人連れ立って歩いている今だって、あちこちから女性の視線を感じる。
たまにテレビに出ているから、もしかしたら見知っているのかもしれないが、柊子が見る限り、ステキな人~、はぁと♡、って顔をしている。
「それより、凄いね。東京湾ってこんなに豊かな海だったんだね。昔の話は聞いてはいたけど、実際にこうやって見ると感動するよ」
貴景の瞳がキラキラしていて、感動している顔がいつにも増して綺麗だ。
柊子も改めて周囲を見渡す。
自然と水と生き物が美しくて素晴らしい。
巴水の青とは違う青だが、清涼感がひしひしと伝わってくる。
この日、いきなり梅雨が明けて一気に暑さを増してきたが、ここだけが別世界のようだ。
川と海と干潟で豊だった海。
生活が便利になるのは有難いが、豊かな自然を破壊してまで追求する事でもないのではないか。共生できる道はきっとある筈、いやあって欲しい。
そう感じさせるコーナーだ。
イカと蛸の凄い吸盤に圧倒されて、トンネル水槽へと差し掛かった。
「うわぁ…」
圧倒されている貴景を見て、微笑ましくて思わず笑みがこぼれた。
「凄いよ、凄いよー」
作家とは思えないボキャブラリーの貧困さだ。
「海の中にいるみたいだ…」
貴景が柊子の手を取った。
ビクリとしたら、すかさず指を絡めてきてガッチリと握られた。
(え?恋人繋ぎ?なんで?)
そりゃぁ確かに夫婦だが、普通にカレカノだったわけでもなく、二人の間に恋愛感情なんてない筈なのに。
そっと貴景を伺うと、上方に顔を向けていて表情が見えない。
「なんだかさ…」
呟くような声が上から落ちてきた。
「海の底にいて、水に揺られて漂っていて、どこかへ攫われてしまうような妙な錯覚に襲われてきた。だから、手を繋いでいないと離れてしまうような気がするんだ」
柔らかな声音が柊子の胸をそっと撫でたような感じがして、柊子はそんな貴景を自然に受け入れていた。
『手を繋いでいないと離れてしまうような気がする』
それは返せば、離れたくないと言っているように聞こえた。
――ああ、やっぱり、この人はズルい。
何を考えているのか、柊子をどう思っているのか、サッパリ分からないのに、時折り見せて来るこのズルさに、離れかけても再び引き寄せられてしまう。
ゆっくり歩いたトンネルも終わりが来る。
抜けた後も、貴景は手を離さなかった。