第46話

文字数 1,334文字


 休日が潰れる事を心配しているのだろうか。

「うちの会社、休みだけはしっかりしてるんです。まぁその分、平日の仕事に皺寄せが出てきちゃうんですけどね」

「それは、今より残業が増えるって事かい?」

「簡単に言えば、そういう事です。本来なら、残業は減らしたいところなんですけど、私の場合、これまでの担当を、勤務時間の短い二人にやって貰う事になって。それが予定通りに終わっていなければ、私が残りの負担を負う事になるし、新しいグループの副の人が、その、レベルが低めの人で…」

「それじゃぁ、凄く大変になるね」

 貴景がギュッと柊子の手を握った。

 やり甲斐のある仕事だろうとは思う。だが、副の木下の事や、自分の元々の仕事の差配、それに同班になった清原の事など、不安要素は少なくない。

「僕が忙しくなる分、君に寂しい思いを、させてしまうかもしれないって心配してたんだけど、それじゃぁ、逆に僕が寂しい思いをするような気になってきた」

「えっ?」

 大変ではあるが、互いに仕事に打ち込めるのだから、問題はないだろうに。

「不思議そうな顔をしているね」

 寂しさが貴景の瞳に漂っている気がした。

 答えられずにいると、貴景はフッと小さく笑った。

「毎日遅くまで残業となれば、君だってさぞ疲れているだろうから、毎晩コーヒーを淹れてもらうのは気が引けるし、元々平日はすれ違いが多いけど、益々そうなるんだろうし、休日だって出かける気力もないだろうし…」

 ――なんだろう…。

 とても不思議な生き物を見ている気がした。
 なんだかとっても、心的な距離が近いような感じがする。

「そこは…、まぁ、状況に応じて対処すればいいかと…」

 どう対応したら良いのか分からなくなって、取り繕うような曖昧な言葉しか出てこない。

 貴景は相変わらず柊子の手を擦りながら、シュンとしたように俯いた。

 ――いやはや…。

 なんなんだ、この人は。
 一体、どうなっている…。

 叱られた幼子のような、ひとりぼっちは嫌だと訴える子どものような。

 三十五歳だぞ。
 大人の男だろうがっ。

 思わず言ってしまいたくなった。
 そして、戸惑う。

 元々理解し難い相手だったが、益々分からなくなってきた。

 さて、どうしたものかと逡巡していたら、貴景が擦っていた柊子の手を持ち上げて、口づけたのだった。

 ビクゥとして思わず引きそうになった手を、ギュッと掴まれ引っ張られる。
 あっ、と思った時には貴景の腕の中だった。

「お願いがあるんだ」

 柊子を抱きしめながら、呟くように言葉がこぼれてきた。

「え?なんなの?」

 貴景の心臓の音が聞こえた。心なしか速いように感じるのは気のせいか。
 だが自分の胸の鼓動の方は、確かにいつもより速くなっていた。

「帰ってきたら、どんなに遅くてもいいから、いつものようにドアの外から“ただいま”って声を掛けて欲しい」

 ――なんだ。そんな事か。

 ちょっと拍子抜けだ。
 お願いなんて言うものだから、もっと凄い事なのかと思った。

「わかりました…」

 ――まぁ、挨拶は大事だ。

「それから…、コーヒーも、できれば毎日、今までのように淹れて欲しい」

「えっ?」

「正直に言うと、ここ最近、淹れてくれない日の方が多かったのが、僕としては嫌だった」

「……」

 予想外のセリフだった。

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