第12話

文字数 1,420文字

「どうですか?結婚生活は」

 目の前の席の後輩男子、清原衛(きよはらまもる)がにやけ顔で訊ねてきた。
 柊子も清原も会社へ来る時間が早いタイプで、始業まで本を読んだり、時に一緒に雑談したりする。この日も始業前の時間帯だ。
 にやけ顔には、若い男として興味津々な心理状態なのが如実に現れている。

「別に、どうって事もないわよ?これまでと変わらない生活が前提だけに、世間一般的な新婚さんって感じは全然ないかな」

「えっ?それって、本当ですか?それじゃぁ、結婚した意味が無いんじゃないですか?」

 眼鏡の奥の瞳が凝縮したように見えた。訝しんでいるのか。

「結婚にどういう価値観を持っているかは、人それぞれでしょ?本人たちがいいのなら、別に問題ないんじゃないのかな」

「それはまぁ、そうでしょうけど…。新婚さんって、ラブラブなのが普通だと思ってたんで」

「ラブラブねぇ…」

 よくもまぁ、照れもせずにそういうセリフが出て来るものだと思う。

「恋愛結婚ならラブラブなのかもしれないけど、うちは見合いだから、ね」

「なんだか、醒めてますね。最初からそんなんで、なんか心配になっちゃいますね」

「いやいや、君に心配されてもね。気にしないで」

 柊子は軽く受け流すと、手持ちの本に目を落した。
 だが、字面を追うだけで中身が頭に入ってこない。

 確かに恋愛ではないから、ラブラブと言った熱い気持ちではないけれど、心地よい温かさを感じて好意を抱いたし、共に過ごす時間をこれからも続けたいと思ったから入籍した。

 だがいざ結婚してみると、なんだか思っていたのと違ったように思えてくるのだった。

 仕事が終わって家へ帰ると、貴景は書斎にこもっていて、ドア越しに“ただいま”“おかえり”のやり取りをするだけで顔を合わせない。
 家の中は整然としていて綺麗で、朝、通勤前に干した洗濯物は取り込まれてきちんと畳んである。食卓の上には一人分の食事がラップをかけて置いてあった。
 どうやら、貴景のアシスタントがやってくれたようだった。

 そして、柊子がシャワーを浴びている時に突然貴景が入って来て抱かれたりする。
 熱い口づけと抱擁と情熱的な瞳に、柊子は躊躇いつつも受け入れてしまう。

 貴景がシャワー中に事に及ぶのには理由があった。
 手っ取り早いというのもあったが、何より夜は遅くまで執筆する事が多い為、柊子とベッドを共にできないというのが最大の理由だった。

「ごめん、一緒に寝れなくて」

 そう言われて、柊子は微笑むしかない。その微笑に僅かな寂しさが漂っている事に、本人も貴景も気づいていない。

「夜遅くまで大変ですよね。コーヒーでも淹れて持っていきましょうか?」

 せっかく結婚したのに、交わるくらいしかコミュニケーションを取れないのも、おかしい気がした。だからそう提案すると、貴景は驚く程、嬉しそうな笑顔になった。

「それは有難いよ。君が寝る前に持ってきて。疲れているだろうけど助かる」

 貴景の反応に柊子の心が軽くなる。
 もっと早くに思いついて提案すれば良かった。
 いくら必要以上に干渉しないと言っても、同居しているのだから少しは気遣いが必要だろう。

 この日から、毎日夜の十一時半頃にコーヒーを淹れて持っていくのが日課になった。

「君の淹れてくれるコーヒーは、とっても美味しいね」

 そう言って本当に美味しそうに飲む姿を見ていると、ほっこりした気持ちになり、その後安らかに眠りにつける。

 だが、そんな安眠もある日を境に不眠気味へと変化した。

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