第77話
文字数 1,689文字
「どうした。泣くほど痛いのか?」
「え?泣いてないと思うけどな…」
「いや、まだ泣いてない。でも泣きそうな顔をしてる」
そう言われた時、柊子の目から涙が溢れだした。
「おいっ、大丈夫か。ナース呼ぼうか?」
「あ、大丈夫です。ただ、痛いだけだから。…あちこちが…」
何も無い所で、足が縺れて転んだ。
バカ過ぎる。自己嫌悪だ。
更に、貴景と真木野の事で胸を痛めている。
一体自分は、結婚に何を求めていたのだろう。
相手の口車に乗せられて、体の関係まで結んで、お互いに干渉する事なく自然体でいられる相手だと勝手に勘違いして。
――おまけに、好意まで…。
二人で過ごした時間は心地よかった。
共に出掛けた時間は楽しかった。
体を重ね合わせて、その胸で目覚めた時は胸がキュンとした。
全ては自分の錯覚だったのかもしれない。
「主任…。ごめんなさい、泣いたりして…」
「別にかまわない。そういう時は誰だってある。お前はちょっと頑張り過ぎだな。いきなり結婚して、新婚なのに難しい仕事を任されて。心身ともに疲れてるんだよ。いい機会だから、少し休め。いずれにせよ、暫くは会社も無理だろうし」
そうか。会社も暫くは休むことになるのか。
ずっと頑張ってきたのに。打ち込んできたのに。
結婚などしていなければ、こんな事にはなっていなかった筈だ。
そんな考えが柊子の中に生まれた。
柊子はギュッと布団を握った。
「そんな悔しそうな顔をするな。さっきも言ったが、お前は頑張り過ぎだ。俺がそう仕向けたのもある。モーターの件では苦労をかけたと思ってるよ。でもお前には期待してるんだ。だからしっかり休んで、また仕事を頑張ってくれ」
なんだか更に涙の量が増えそうになった。
「ありがとうございます。…ところでお願いなんですが、私、色々と思うところがあって、今回の事は夫に知らせたくないんです。だからもし訊かれても、秘密にしてもらえませんか?」
「はぁ?なんだそれは。一体どういう事だ」
「すみません。事情は話せません。色々と複雑な事情なんです」
「だからと言って、家族だろう。教えないのはおかしいだろうが」
「そうかもしれませんが、それは一般的な家庭の話で、うちはちょっと違うんです。書類上は家族ですけど、実態は無いようなものなので…」
柊子の言葉に柿原は絶句した。
驚くのも無理はない。だが、それが現実なんだと思う。
「おまえ…、それで幸せなのかよ。なんで結婚したんだよ」
柊子はフッと笑った。
自身に対して嘲りのような感情を抱く。
「なんででしょうね。今から思えば、気の迷いだったとしか言いようがないです」
二人の間に重たい空気が流れた。
柿原は面倒見の良い上司だ。
明るい妻と元気な息子が二人。共に地元のサッカークラブに入っていて、休日はサッカークラブのサポートに追われ、たまに空いた日は仲間とテニスを楽しみ、長期休暇の時には家族とキャンプを楽しむ典型的なアウトドア派だ。
職場では個性的で協調性のないメンバーの統率でストレスを溜めていそうだが、それをプライベートで上手く発散させていて、充実した日々を送っていると、周囲にも伝わってくる。
「俺は会った事がないから、よく分からない。だがお前の事なら、それなりに分かってるつもりだ。お前が選んだんだから、間違いはないんだろうと思ってた」
「そんなの、買い被り過ぎですよ。それに、どんな人だって間違う事はあると思うし」
柿原は、はぁっ、と大きなため息をついた。
「簡単には言えないが、間違いだと思うなら、もう駄目だと思うなら…」
柿原はそれ以上は言わずに、柊子の瞳を見つめた。
――離婚…、なのかな…。
「ズルズルするのも良くないと思うが、かと言って早急に決めるものでもないと思う。だから丁度いい機会だろう。休んでいる間によく考えろ」
「ありがとうございます…」
こうして心配してくれる存在がいるだけでも有難い。
柿原は、「いつでも相談にのるから」と言って、帰っていった。
――もう、疲れた…。
色々な事があり過ぎた。今はゆっくり休みたい。
病院の白い天井を見ながら、柊子はやがて眠りに落ちていった。