第48話
文字数 2,252文字
頭上からは真夏の太陽が照り付けて、足元からは目を瞑りたいほどの照り返しの眩しさと、這い上がって来る熱気に襲われながら、柊子たち一行は本社ビルへと足を運んでいた。
新モーターの勉強会だ。
「暑いっすねぇ…」
ダラダラと汗を流しながら、清原が声をかけてきた。
「言わないでくれるかなぁ、分かり切ったことなんだし。一層暑く感じるじゃない」
「そうですけど、無意識に口をついて出てきちゃうんですよ」
「だよな。俺もそう思う」
柊子より少し後ろを歩いていた木下が、手で額の汗を拭っている。
ハンカチなんて彼には高尚過ぎるんだろうなぁ、と木下を見て思った。それは清原にしたって同じで、彼に至っては着ているポロシャツの袖で拭っている。そのうち、腹を出して拭うんじゃないだろうか。
「お前ら、だらしがないぞ」
先頭を行く柿原主任が振り返った。その顔は赤い。
「たいした距離じゃないんだ。自然現象に文句を言ったところで無駄だぞ」
そのすぐ後方を歩いていた、男性社員の神田が不満そうに顔を歪める。
「カッキーよ。体育会系のあんたには平気だろうが、ここにいる殆どはインドア派なんだよ。一緒にするんじゃねぇ」
大層な口の利き方である。
グループ長であり、主任でもある柿原なのに、部署のみんなは敬わない。
この職場で働きだした頃は、面食らった。
上下関係が非常に希薄な職場で、課長や部長が相手でも同じように横柄な態度なのだ。会議の時も皆、思い思いの姿勢で言いたいことをズバズバと言っている。
こういう態度に柿原と部長は全く気にしていないのだが、唯一課長の須藤だけは気に入らないようで、会議中はいつも苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「俺だって平気じゃねーよ。やせ我慢してるんだよ。だから、気を削ぐような事は言わないでくれ」
「ちっ」
神田が舌打ちした。
言い返されたのが気に入らなかったのか、暑さで怒りが更に募ったのかはわからない。
そんなやり取りに、柊子は少し気が滅入る。
今回の新グループは主任を含めて総勢で八人。
若手の三人以外は三十代と四十代のベテランだ。そのベテラン勢がいる中で、柊子と同じ年の頼りない木下が副グループ長なのだ。この個性的な面々を相手に上手くやっていけるのだろうか。
それを思えば、自分でなくて良かったと実感する。
そうこうしているうちに、本社に到着した。
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、天国へやってきたような幸福感に包まれた。
「あー、極楽だー」
清原だ。
思った事がすぐに口から出て来るタイプだった。
「けっ。涼しいくらいで極楽とは、呑気なヤツだよな。これから本当の地獄が、待ってるのによ」
神田の毒舌に寒気が走る。
普段から不愛想で、たまに喋れば嫌味や皮肉が多い先輩社員だが、困った時には助けてくれる優しい面もある。
それにしても、地獄とは。
確かに未知のモーターとの取り組みは不安要素が多すぎるし、発表が十一月と近いので、これから修羅場になるのも目に見えている。『地獄』という表現が大袈裟であって欲しいと思わずにいられない。
「地獄になるか否かは、みんなの頑張り次第だよ」
普段から温厚な内藤がにこやかな顔で言った。
「そうですよ。最初から悲観的なのは、よくないでしょう」
真面目な室不二 の言葉に、瓶底メガネの博士のような外見の菅原が「神田の言う事を、いちいちまともに取っちゃ駄目だよ」とニヤリと笑う。
神田はまた、「ちっ」と舌打ちした。
「お前ら、ここは本社なんだから、静かにしてくれよ」
困り顔で声を抑えて注意する柿原を見て、つくづく苦労人だな、と思った。
みんな、大の大人なのにと柊子は半ば呆れる。
受付を済ませ、ネームプレートを受け取って上階の会議室へと向かう。エレベーターの中では珍しく誰もが無言だった。さすがに神妙な面持ちになってきている。
会議室では既に本社の各部門の代表者が待ち受けていた。
資料を渡され、各々席につく。前方にはスクリーンが下がっていた。
自己紹介と挨拶もそこそこに、今回の製品の説明が始まった。
(うわぁー、想像以上に難しい。どうしよう…)
ガソリンエンジンに関しては、基本的な事は勉強して理解している。だが電気を動力にしたモーターは今回が初めてだ。
入門書を借りて読み、基本中の基本はそれなりに理解したが、新製品と言うだけあって従来の物よりも性能が高く、その分構造も複雑だった。
柊子がチラと周囲を伺うと、皆、いつになく真剣で難しそうな顔だった。その中でただ一人、内藤だけが楽しそうな顔をしていた。
グループ内では最年長で、エンジンのカタログのベテランだ。少年のようにワクワクしているように見える。
その姿を見て、柊子に掛かっていた負荷が急速度で下がった気がした。
――この人がいれば、多分、大丈夫そう。
柿原主任を見ると、いつもと変わらぬ表情で、左手の薬指にある指輪を軽く上下させている。
この人の癖だ。職場でも、相手の話を聞いている時によくやっている。その仕草が出ているのなら、多分、平常心なのだろう。緊張していない証拠だ。
木下へ視線を移すと、こちらはガチガチになっていた。顔色が良くない。
(あぁ、あ~)
こりゃダメだ、と呟きそうになった。
その後、質疑応答になり、ベテラン勢のやり取りを柊子は必死に記録した。
彼らの速度に理解が追い付かなかったが、取りあえず全て記録して、後からゆっくり整理するしかない。
彼らが理解してくれれば、自分は彼らから学べる。そう思って記録に徹した。
新モーターの勉強会だ。
「暑いっすねぇ…」
ダラダラと汗を流しながら、清原が声をかけてきた。
「言わないでくれるかなぁ、分かり切ったことなんだし。一層暑く感じるじゃない」
「そうですけど、無意識に口をついて出てきちゃうんですよ」
「だよな。俺もそう思う」
柊子より少し後ろを歩いていた木下が、手で額の汗を拭っている。
ハンカチなんて彼には高尚過ぎるんだろうなぁ、と木下を見て思った。それは清原にしたって同じで、彼に至っては着ているポロシャツの袖で拭っている。そのうち、腹を出して拭うんじゃないだろうか。
「お前ら、だらしがないぞ」
先頭を行く柿原主任が振り返った。その顔は赤い。
「たいした距離じゃないんだ。自然現象に文句を言ったところで無駄だぞ」
そのすぐ後方を歩いていた、男性社員の神田が不満そうに顔を歪める。
「カッキーよ。体育会系のあんたには平気だろうが、ここにいる殆どはインドア派なんだよ。一緒にするんじゃねぇ」
大層な口の利き方である。
グループ長であり、主任でもある柿原なのに、部署のみんなは敬わない。
この職場で働きだした頃は、面食らった。
上下関係が非常に希薄な職場で、課長や部長が相手でも同じように横柄な態度なのだ。会議の時も皆、思い思いの姿勢で言いたいことをズバズバと言っている。
こういう態度に柿原と部長は全く気にしていないのだが、唯一課長の須藤だけは気に入らないようで、会議中はいつも苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「俺だって平気じゃねーよ。やせ我慢してるんだよ。だから、気を削ぐような事は言わないでくれ」
「ちっ」
神田が舌打ちした。
言い返されたのが気に入らなかったのか、暑さで怒りが更に募ったのかはわからない。
そんなやり取りに、柊子は少し気が滅入る。
今回の新グループは主任を含めて総勢で八人。
若手の三人以外は三十代と四十代のベテランだ。そのベテラン勢がいる中で、柊子と同じ年の頼りない木下が副グループ長なのだ。この個性的な面々を相手に上手くやっていけるのだろうか。
それを思えば、自分でなくて良かったと実感する。
そうこうしているうちに、本社に到着した。
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、天国へやってきたような幸福感に包まれた。
「あー、極楽だー」
清原だ。
思った事がすぐに口から出て来るタイプだった。
「けっ。涼しいくらいで極楽とは、呑気なヤツだよな。これから本当の地獄が、待ってるのによ」
神田の毒舌に寒気が走る。
普段から不愛想で、たまに喋れば嫌味や皮肉が多い先輩社員だが、困った時には助けてくれる優しい面もある。
それにしても、地獄とは。
確かに未知のモーターとの取り組みは不安要素が多すぎるし、発表が十一月と近いので、これから修羅場になるのも目に見えている。『地獄』という表現が大袈裟であって欲しいと思わずにいられない。
「地獄になるか否かは、みんなの頑張り次第だよ」
普段から温厚な内藤がにこやかな顔で言った。
「そうですよ。最初から悲観的なのは、よくないでしょう」
真面目な
神田はまた、「ちっ」と舌打ちした。
「お前ら、ここは本社なんだから、静かにしてくれよ」
困り顔で声を抑えて注意する柿原を見て、つくづく苦労人だな、と思った。
みんな、大の大人なのにと柊子は半ば呆れる。
受付を済ませ、ネームプレートを受け取って上階の会議室へと向かう。エレベーターの中では珍しく誰もが無言だった。さすがに神妙な面持ちになってきている。
会議室では既に本社の各部門の代表者が待ち受けていた。
資料を渡され、各々席につく。前方にはスクリーンが下がっていた。
自己紹介と挨拶もそこそこに、今回の製品の説明が始まった。
(うわぁー、想像以上に難しい。どうしよう…)
ガソリンエンジンに関しては、基本的な事は勉強して理解している。だが電気を動力にしたモーターは今回が初めてだ。
入門書を借りて読み、基本中の基本はそれなりに理解したが、新製品と言うだけあって従来の物よりも性能が高く、その分構造も複雑だった。
柊子がチラと周囲を伺うと、皆、いつになく真剣で難しそうな顔だった。その中でただ一人、内藤だけが楽しそうな顔をしていた。
グループ内では最年長で、エンジンのカタログのベテランだ。少年のようにワクワクしているように見える。
その姿を見て、柊子に掛かっていた負荷が急速度で下がった気がした。
――この人がいれば、多分、大丈夫そう。
柿原主任を見ると、いつもと変わらぬ表情で、左手の薬指にある指輪を軽く上下させている。
この人の癖だ。職場でも、相手の話を聞いている時によくやっている。その仕草が出ているのなら、多分、平常心なのだろう。緊張していない証拠だ。
木下へ視線を移すと、こちらはガチガチになっていた。顔色が良くない。
(あぁ、あ~)
こりゃダメだ、と呟きそうになった。
その後、質疑応答になり、ベテラン勢のやり取りを柊子は必死に記録した。
彼らの速度に理解が追い付かなかったが、取りあえず全て記録して、後からゆっくり整理するしかない。
彼らが理解してくれれば、自分は彼らから学べる。そう思って記録に徹した。