第84話

文字数 1,463文字


「私、この三週間、いろいろと考えたんだけど、もう一緒にいられないと思う」

「えっ?」

 貴景は信じられないような顔を柊子に向けた。

「真木野さんの存在に一喜一憂させられるのは、私の精神衛生上、良くないと思うの。入院した時にあちこち検査されたんだけど、神経性胃炎になりかかっているって言われた。実際、仕事のストレス以上に真木野さんの事はストレスだったと思う。これ以上一緒にいたら、胃潰瘍にでもなりそう。あなたも私と別れたら、堂々と真木野さんと一緒にいられるでしょう?これまでは人妻だったけど、離婚するらしいから良かったよね。タカちゃんのパパになれるんだから、嬉しいでしょう?」

 貴景は唇を震わせながら、そっと柊子の頬に手を当てた。

「それならなぜ、涙を流してるの?」

 貴景の大きな手が、柊子の頬に当てられた瞬間、柊子の肩がビクリと跳ねた。

「君に、辛い思いをさせてきていた事に、気づけないでごめん。…ずっと、自分の真木野さんへの行動は、当たり前の事をしてる意識だった。君にも話したけど、お世話になってたから、お返しするのが当然だと思ってた。だから、君に言われても理解できずにいたんだ…」

 柊子は自分が泣いている事に気づかなかった。
 頬に当てられた貴景の手の上を、柊子の涙がボロボロと流れ落ちていく。

「だけど。…だけどね。段々と、君との時間を邪魔するようなタイミングで連絡が来るものだから、内心では苛立ってたんだ。確かに最初の頃は、君に酷い事を言って彼女の家へ行っていたけれど、君との時間が増えるのに比例して、彼女を助けに行くのが段々と面倒くさく思うようになってた。だけど、そういう自分に腹も立っててね。結婚したら途端に他人に薄情になるのかって、自責の念が湧いてきたりして」

 そんな葛藤を抱えていたとは微塵も感じられなかった。
 元々、感情を表面に出すのが苦手な人だけに、尚更、分かりやしない。

「この夏は…。君に逢えなくて心が(かつ)えてた。君と結婚する前の状況に戻っただけなのに、真木野さんとの仕事の時間をつまらなく思えた。…彼女とは初めから妙に馬が合ってね。仕事の合間のお喋りも楽しかったんだ。僕にとっては、本当に、ただの気の合う友人だった。だけど、君が実家へ帰って夜のコーヒーも無くなって、凄く寂しいと思った…」

 ――狡い人だ。本当に狡い。

 こうやっていつも柊子を惑わすのだ。

「…じゃぁ、なんで…、あの日、真木野さん達と?」

「あの日は、タカちゃんの保育園の運動会があって。出版パーティの帰り、彼女を忘れて帰ったでしょ。あれを責められてね。罪滅ぼしに来て欲しいって言われたんだ。ダンナさんが来るって言ってたのに、急遽来れなくなったからって」

 あの日のプンプン怒ったスタンプを思い出した。あの時、貴景が真木野の事をすっかり忘れて、柊子の手を取って帰った事が凄く胸に響いたのだった。
 だからこそ、この日の光景への衝撃が一層強くなったのだった。
 やっぱり、この人にとっては真木野が一番なんだと思わされたのだ。

「幸か不幸か、君は披露宴に出席するって事だったから、それなら行ってもいいかと思った。タカちゃんが可哀そうだと思ったから。でも、僕が間違っていた。君の気持ちを聞いて、尚更そう思うよ」

「貴景さん…」

「もっと早くに気づけば良かった。真木野さんから、離婚するから再婚して欲しいと言われた時、愕然とした。真木野さんとダンナさんの問題なのに、なぜ僕が再婚相手にされるんだ、って思ったよ。僕には柊子さんがいるのに」

 悲しそうな瞳が柊子の瞳を覗き込んでいる。

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