第43話
文字数 2,131文字
「柊子さぁ。全然わかってないよ。さっき言ったじゃん。大蔵さんはぁ、柊子に好意を持ってるって」
「……」
それは確かに聞いた。聞いたが、それがどういう意味を持つものなのか、柊子は未だに理解できずにいる。
「柊子ちゃん…。大蔵さんに口説かれた事って無いの?」
「はいぃ?」
中村の質問に、今度は柊子が目を剥いた。
「ありませんよ。あったらそれこそ、一緒にお出かけなんてしませんし、食事だって行かなくなると思います」
「だよねー。だから、そこなんだと思う。大蔵さんの狡さって」
「そうね、そこね。柊子ちゃんに好意を寄せているからこそ、あえて踏み込まず、二人の時間を楽しんでる。そんな感じがするわ」
「ですよねー。ただ、あの人、まだ四十そこそこでしょ?体の方の欲求はないのかな。柊子と深い関係になりたいって欲望が生じてもおかしくないし、そうだとしたら、凄い葛藤ですよねぇ?」
柊子の顔が熱くなってきた。
「やめてよ、そんな事を言うのは。大蔵さんに失礼じゃない」
「柊子、何焦ってるの?私はぁ、当たらずとも遠からずだと思うよ。不倫関係になるのは色々と煩わしいし、面倒な事になるのも困るでしょ?だから、適度な距離感の付き合いに留めて、二人の時間を楽しんでるんだよ。そういう意味では、柊子は都合のいい相手って事なんじゃないのかな。柊子自身、大蔵さんに好意を寄せてるでしょ?」
胸がドキリとした。
秋穂の言っている事は、まさに当たらずとも遠からずだと思った。
大蔵の事を、何度ステキな人と思ったか数知れない。
初めて休憩室で親しく話した時には、確かに胸が高鳴った。
会社帰りにたまたま駅までの道で一緒になり、話しに花が咲いて駅前のカフェに誘われてお喋りした時には、心がふわふわして、天にも昇る気持ちとは、このことだと思った。
それから休憩室でよく話すようになった。
ごく自然に親しさが増し、就業後にお茶をしたりご飯を食べたりするようになり、ちょっとしたきっかけで美術館に誘ってみたら承諾してくれた。
既婚者なのに大丈夫なのかと、その時に思ったのは確かだ。だが、いつだったか、二人で雑談をしている時に、夫婦仲は最悪だが不倫をする気は一切ない、といった話を聞いていた。
妙にフラフラと腰が定まらないような雰囲気を漂わせているが、他人と深い関係になる事は厭 う面があって、会社内でも付き合いは悪い方だ。
他の社員たちと一緒に飲み歩くような事は皆無だ。それなのに、柊子とは食事に行く。
そんな柊子に、不倫をする気は無いと言ったのは、もしかしたら牽制だったのかもしれない。
だが柊子の方だって、憧れの気持ちはあるものの、既婚者とどうこうなろうなんて気は毛頭なかった。そういう点では、つかず離れずの微妙な関係を楽しんでいたと言えるし、お互い様と言う事でもあるだろう。
「都合のいい相手って、それはお互いにそうだと思う。あたしだって、大蔵さんとの時間は楽しいし、癒されるんだよね。でも、確かにお互いに好意を持ってはいるけど恋愛感情じゃないし、今後もそういう仲には絶対にならないって自信はあるよ」
柊子の言葉に、二人の表情は緩まなかった。言い訳とか詭弁とでも思っているのだろうか。
「柊子ちゃんがそう思っていても、大蔵さんも同じとは限らないんじゃないの?」
中村の指摘に柊子は怯む。
「そうだよ。相手も同じと思ってたら、足元を掬 われるかもよ?」
二人にそう言われても、柊子には矢張りピンと来ない。
その理由のひとつが、大蔵が醸し出す気怠 さだろう。
――あの人は人生に疲れている。
そう感じる。
子供たちが成人して離婚したら、友人と二人で起業するという話を聞いたことがある。それまでの時間は、自分にとっては義務を果たすだけの、面白味の無い時間なんだとも。
「だから柊子ちゃんとの時間は、唯一の潤いなんだよね」
そう言われた時の暗い目に、ドキリとした。
(確かに私は、あの人に利用されてるのかもな)
今改めて自覚する。
狡いと言えば、そうなのかもしれない。
「それでも、絶対に無いよ。あの人には、行動に移す熱量が全然感じられないと言うか。義務感で働いて、生きてるだけの人。私との時間はちょっとした息抜きみたいなものだから。言っちゃ悪いけど、くたびれきったオジサンに過ぎないから」
「おや、言い切ったね」
「だって、そうなんだもん」
「それなら柊子ちゃん。会社帰りのご飯くらいにして、休日に一緒に遊びに出るのは止めた方がいいわよ?お互いに既婚者だし、それこそあらぬ誤解が生じないためにもね」
「就業後のご飯だって、数を減らした方がいいよ。二人きりなんでしょ?あの人さ。雰囲気が妖しいんだよね。気怠さの中に妙な色気がない?」
「それは、私も同感だわ。妙に女性を惹きつけるような雰囲気あるわよね」
秋穂と中村の言葉に柊子は首を傾げる。
午後の始まりの鐘が鳴った。
「ああもう仕事だ。暫くは忙しくて、それこそ就業後に食事とか行けないよね。いい機会だから、少し距離を置くといいよ」
当て馬の話だったのに、距離を置く方へと話がシフトしていた。
いずれにせよ、当て馬なんてバカバカしい。
柊子は冷え切ったコーヒーの残りを飲むと、職場へと急ぎ足で戻るのだった。
「……」
それは確かに聞いた。聞いたが、それがどういう意味を持つものなのか、柊子は未だに理解できずにいる。
「柊子ちゃん…。大蔵さんに口説かれた事って無いの?」
「はいぃ?」
中村の質問に、今度は柊子が目を剥いた。
「ありませんよ。あったらそれこそ、一緒にお出かけなんてしませんし、食事だって行かなくなると思います」
「だよねー。だから、そこなんだと思う。大蔵さんの狡さって」
「そうね、そこね。柊子ちゃんに好意を寄せているからこそ、あえて踏み込まず、二人の時間を楽しんでる。そんな感じがするわ」
「ですよねー。ただ、あの人、まだ四十そこそこでしょ?体の方の欲求はないのかな。柊子と深い関係になりたいって欲望が生じてもおかしくないし、そうだとしたら、凄い葛藤ですよねぇ?」
柊子の顔が熱くなってきた。
「やめてよ、そんな事を言うのは。大蔵さんに失礼じゃない」
「柊子、何焦ってるの?私はぁ、当たらずとも遠からずだと思うよ。不倫関係になるのは色々と煩わしいし、面倒な事になるのも困るでしょ?だから、適度な距離感の付き合いに留めて、二人の時間を楽しんでるんだよ。そういう意味では、柊子は都合のいい相手って事なんじゃないのかな。柊子自身、大蔵さんに好意を寄せてるでしょ?」
胸がドキリとした。
秋穂の言っている事は、まさに当たらずとも遠からずだと思った。
大蔵の事を、何度ステキな人と思ったか数知れない。
初めて休憩室で親しく話した時には、確かに胸が高鳴った。
会社帰りにたまたま駅までの道で一緒になり、話しに花が咲いて駅前のカフェに誘われてお喋りした時には、心がふわふわして、天にも昇る気持ちとは、このことだと思った。
それから休憩室でよく話すようになった。
ごく自然に親しさが増し、就業後にお茶をしたりご飯を食べたりするようになり、ちょっとしたきっかけで美術館に誘ってみたら承諾してくれた。
既婚者なのに大丈夫なのかと、その時に思ったのは確かだ。だが、いつだったか、二人で雑談をしている時に、夫婦仲は最悪だが不倫をする気は一切ない、といった話を聞いていた。
妙にフラフラと腰が定まらないような雰囲気を漂わせているが、他人と深い関係になる事は
他の社員たちと一緒に飲み歩くような事は皆無だ。それなのに、柊子とは食事に行く。
そんな柊子に、不倫をする気は無いと言ったのは、もしかしたら牽制だったのかもしれない。
だが柊子の方だって、憧れの気持ちはあるものの、既婚者とどうこうなろうなんて気は毛頭なかった。そういう点では、つかず離れずの微妙な関係を楽しんでいたと言えるし、お互い様と言う事でもあるだろう。
「都合のいい相手って、それはお互いにそうだと思う。あたしだって、大蔵さんとの時間は楽しいし、癒されるんだよね。でも、確かにお互いに好意を持ってはいるけど恋愛感情じゃないし、今後もそういう仲には絶対にならないって自信はあるよ」
柊子の言葉に、二人の表情は緩まなかった。言い訳とか詭弁とでも思っているのだろうか。
「柊子ちゃんがそう思っていても、大蔵さんも同じとは限らないんじゃないの?」
中村の指摘に柊子は怯む。
「そうだよ。相手も同じと思ってたら、足元を
二人にそう言われても、柊子には矢張りピンと来ない。
その理由のひとつが、大蔵が醸し出す
――あの人は人生に疲れている。
そう感じる。
子供たちが成人して離婚したら、友人と二人で起業するという話を聞いたことがある。それまでの時間は、自分にとっては義務を果たすだけの、面白味の無い時間なんだとも。
「だから柊子ちゃんとの時間は、唯一の潤いなんだよね」
そう言われた時の暗い目に、ドキリとした。
(確かに私は、あの人に利用されてるのかもな)
今改めて自覚する。
狡いと言えば、そうなのかもしれない。
「それでも、絶対に無いよ。あの人には、行動に移す熱量が全然感じられないと言うか。義務感で働いて、生きてるだけの人。私との時間はちょっとした息抜きみたいなものだから。言っちゃ悪いけど、くたびれきったオジサンに過ぎないから」
「おや、言い切ったね」
「だって、そうなんだもん」
「それなら柊子ちゃん。会社帰りのご飯くらいにして、休日に一緒に遊びに出るのは止めた方がいいわよ?お互いに既婚者だし、それこそあらぬ誤解が生じないためにもね」
「就業後のご飯だって、数を減らした方がいいよ。二人きりなんでしょ?あの人さ。雰囲気が妖しいんだよね。気怠さの中に妙な色気がない?」
「それは、私も同感だわ。妙に女性を惹きつけるような雰囲気あるわよね」
秋穂と中村の言葉に柊子は首を傾げる。
午後の始まりの鐘が鳴った。
「ああもう仕事だ。暫くは忙しくて、それこそ就業後に食事とか行けないよね。いい機会だから、少し距離を置くといいよ」
当て馬の話だったのに、距離を置く方へと話がシフトしていた。
いずれにせよ、当て馬なんてバカバカしい。
柊子は冷え切ったコーヒーの残りを飲むと、職場へと急ぎ足で戻るのだった。