第73話
文字数 1,432文字
軽く首を傾げて、「さぁ」と催促されて、仕方なく貴景の手を取ると、ヒンヤリとした指が柊子の手を握った。
――なんだかすごくドキドキする…。
これは何だ。
まるで付き合いたての学生みたいだ。
「あの…、いいんですか?もう帰って…」
「いいでしょう。あとはみんな、無礼講のように飲み潰れるだけだろうから。僕らはいなくても問題無いよ」
貴景に手を引かれて歩き出したら、背後から三人組に声を掛けられた。
「あ、あの!遠峰先生」
貴景は立ち止まると、少しだけ振り返って「まだ何か?」と言った。
その顔は冷たい。
「あ、あのっ…。せっかくなので、良かったらその、サインと握手を…」
手には小さな手帳とボールペンが握られている。
それをチラッと見た貴景は不愛想に言った。
「良くないので、お断りします」
貴景の返事に、三人は驚いている。
「はぁ?『良くないので』って、どういう事ですか?」
納得できないようだ。
「君たち、賢くないね。『良かったら』って君が言ったんでしょう。僕にとってはちっとも宜しくないから、断っているんだよ。ここの人間なら身内だよね。僕の本を買ってのサインなら、まだしも、そんな手帳に出来るわけが無い。僕は芸能人じゃないんだし。握手も同じだよ。それに何より、君たち僕の妻を無視してるでしょう。そういう人たちだから、嫌なんだよ」
貴景はそう言うと、柊子の背を軽く押して歩きだした。
背後から「酷い」と言っているのが聞こえたが、貴景は全く気にしていないようだ。
「あ、あの…。良かったんですか?あれで。後々問題になりませんか?」
心配になって尋ねた。
「大丈夫だよ。君は心配しなくていい」
「でも…」
パーティ会場では、女性編集者たちにされるがまま、と言った感じだったから、取り敢えずは受け入れるスタンスなのかと思っていた。
だから、ああいう冷たい態度を取るとは予想外で、快く対応するものとばかり思っていた。
「あっ!貴景!」
和人が走り寄ってきた。
「主役がどこへ行ってたんだよ。みんな待ってるぞ」
「悪いけど、もう帰るよ。疲れたよ。僕も柊子さんも」
声に力が無い。心底疲れているのが伝わってくる。
「え?そうなの?でもなぁ…」
和人が頭をボリボリしながら、困ったように顔を歪めた。
「十分、義理は果たしたと思うよ。大体、柊子さんを休憩室へ連れ出したのはお前だろ?お蔭で僕は探し回るはめになって、余計に疲れた。そもそも、折角夫婦で来たと言うのに、引き離されてウンザリなんだよ。何と言われようが、帰るから」
「あ、おいっ!」
尚も引き留めようとする和人を無視して、貴景は柊子の手を掴んでスタスタとその場を去り、エレベーターへ乗り込んだ。
ホテルを出て、タクシーに乗り込んでからハタと気づいた。
「あの、…真木野さんは…」
「あーっ、忘れてた…」
「戻りますか?」
貴景は少し考えてから、「いや、いいよ」と言って、柊子の手を握った。
その事が強く柊子の胸を熱くする。
何かにつけ、自分よりも真木野を優先させてきた貴景が、真木野の事を忘れていた。そして、迎えに戻らない。
それだけの事だが、それを嬉しく思う自分がいた。
家に着いた頃、貴景のLINEが鳴った。
「あはは…、怒ってるよ」
そう言って柊子に見せてきた画面には、“先生、先に帰っちゃうなんて酷い!”と言う言葉と、プンプン怒っているスタンプが貼ってあった。
それを見て、思わず口角が緩む。
真木野には悪いが、こんなひと時が愛しく思えてくるのだった。