第76話
文字数 1,404文字
目を覚ましたのは病室の中だった。
――痛いっ。
大部屋のようで、カーテンに囲まれた薄暗い空間の中で、病院独特のニオイが鼻をつく。そして、体中が痛かった。
周囲がガヤガヤとしているのは、他の患者と面会者たちとの話し声なのだろう。
柊子のそばには誰もいない。
転んだのは覚えている。
なぜ転んだのかは分からない。何故か足が絡んで、あっと言うまに転んだのだった。手をつく暇も無かった。
都会の大きなショッピングモールの出入り口である。
転ぶ瞬間に、(イヤダ!恥ずかしい!)と思ったのを思い出した。
それにしても、転んだくらいで病院のベッドとは。
確かに、頭は痛いし右肩から腕にかけても痛いし、おまけに胃の辺りも痛い。
――それでも大袈裟すぎる。
そう思っていたら、カーテンがシャッ!と開いた。
「おいっ、大丈夫かっ!」
目の前に現れたのは、チョビ髭がトレードマークの上司、柿原主任だった。
「えっ?なんで主任が…、つっ…」
生島の披露宴で一緒だった柿原は、礼服からトレーナーとジーンズ姿に変わっている。
「会社に電話があったんだよ、病院から。それで、俺に回されてきた」
――なぜ会社に…?
不思議に思っていると、看護師が現れた。
「遠峰さん、目覚めましたか。どうですか。大丈夫ですか?」
言われて起き上がろうとしたら、頭痛だけでなく体にも痛みが走った。
「まだ、無理をしないで、横になっててね」
「あの…、わたし…、一体どうして…」
「ショッピングモールの前で転んで、意識を失ったって。周囲の人が声を掛けても返事はないし、頭を打ったようなので救急車を呼んでくれたの」
「そうだったんですか。それで…、どうして会社に…」
「ご自宅へ電話をしたんだけど、どなたも出られなくて。社員証があったから、取り敢えず会社の方へ連絡させてもらいました」
「そうだったんですか。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「いいえ。仕事ですから。それより、外傷は額の傷くらいなんだけど、側頭部を打ってるようだし、右側の肩や腕も打ち付けたようだから、検査入院になります。大したことが無かったら、すぐに退院できますから心配しないでね」
柊子は黙って頷いた。
「ほんとに一体、どうしたんだ…」
看護師が去った後、腰かけた柿原が眉をしかめている。
「自分でもよく分からないんですけど、突然足が縺れてしまって…。疲れてたのかも」
「右肩と右腕を打撲って、一体どういう転び方をしてるんだか…」
「すみません、両手が荷物で塞がってて…」
「両手をポケットに突っ込むんじゃありません、ってヤツだな」
「そういう事ですね。ポッケではなかったけど」
「それで、オデコと頭か。お前、鼻をぶつけてなくて良かったな」
「まったくそう思います…」
いちいちご尤もだと思うばかりだ。
「それにしても、ダンナは未だに知らないって事になるのか…」
「…ごめんなさい。主任にご迷惑をおかけして」
「あー、まぁ、遅かれ早かれ俺の所にも連絡は来るんだろうし、そこは別に構わない。まぁ生島の所から戻って一息ついて、ヤレヤレと思ってた時だったから、すっげぇ驚いたけどな」
柊子は力なく微笑んだ。本当に申し訳ないと思う。その一方で、貴景はまだ知らない事にモヤモヤとした感情が湧いてくる。
自宅に電話しても、いないのは当然だろう。あのショッピングモールの中にいたのだから。
あの時の光景が頭に浮かび、涙が出てきそうになった。