第69話

文字数 1,976文字


 爽やかさを空気が取り戻した十月の某日。

『平成浪漫奇譚』の出版記念パーティが都内のホテルで行われた。そのパーティの席に、柊子も妻として出席している。

 夏が秋を目指して駆け抜けて行ったのと同じように、遠峰夫婦も其々の仕事で猛ラッシュし、なんとかゴールに辿り着いたのだった。

 とにかく柊子は、この時期は考える事を諦めた。
 解決への道筋を考えている時間が無いほど仕事に追われていたし、それは貴景も同じだった。

 モーターのカタログと仕様書の完成は、連日の深夜にも及ぶ残業で何とか締め切りに間に合った。深夜にまで及んだのは、木下が大きなミスをしたからだった。
 この時には、誰もがキレた。キレた所でどうにもならないと分かっていても、感情が爆発するのを抑えられなかった。

 一度は爆発させて、完全燃焼させないと、その後の仕事が(はかど)らない。その時に最もキレたのは、柿原主任だった。それも尤もな事だった。

 元々何かある度に言いたい放題な連中だったが、今回ばかりは怒り心頭状態で、木下を散々どやしつけた後で、そんな木下を副にした主任が一番悪い、お前の管理指導がなってないからだと全ての不満を柿原にぶつけだした。

 そもそもメンバーを選出したのは柿原ではない。木下を副にしたのも柿原ではない。柿原こそ一番迷惑していたのに、全ての責任を押し付けるようにして人格否定にまで及ぶような責めに、さすがの柿原も我慢できなくなったようだ。

「お前らがそこまで言うなら、もうみんな辞めて貰って構わない。俺一人でやる。誰も頼らないから、みんな帰れっ!」

 全ての感情を吐き出して、最後にそう言って一人で黙々と仕事を始めたのだった。
 いつも場を丸く収めてきた柿原がキレたのは初めての事だった。
 誰もが無言になり、やがて一人また一人と仕事を再開させた。
 元凶の木下は涙を流しながら頭を下げていた。

 柊子も泣いていた。
 嵐のような感情のやり取りが怖かった。
 中年の男性たちが声を荒げて怒鳴り、喚き、締め切りが近い事もあって絶望感すら漂っていたように思う。

 だがそれも過ぎ去った。
 とにもかくにも、やるしかない事に皆が気づいたからだろう。

 ――なんとか間に合ってよかった…。

 皆の執念の賜物と言っても良いだろう。
 お蔭で、以前の日常が戻って来てホッとしている。これから先、あれ程の修羅場に遭遇する事はないだろう。
 これまで締め切り前の忙しさを大変だと思っていたが、今後は大したことではないと思うに違いない。

「えー、浪漫奇譚シリーズも、ひとまずこれが最後と伺っておりますが、今後、令和奇譚はお書きにならないのでしょうか」

 女子アナか?と思わせるような垢ぬけた知的な美人編集者のインタビューに、貴景はいつもの爽やかな笑顔で答えていた。

「そうですね。令和はまだ始まったばかりですから、どうでしょう。今の時点では考えていませんが、先の事は分かりませんので未定ということで」

 美人編集者は頬を染めながら、尚も質問を重ねる。

「私、浪漫奇譚シリーズの大ファンなんです。それぞれの時代の風潮の中にロマンティックな幻想感がステキで…」

「そうですか。ありがとうございます」

 壇上、と言っても通常の床より十センチほど高い台が置いてあるだけだが、そこでインタビューを受けている貴景は、颯爽としている。ただよく見ると目の下に薄っすらとクマができていた。

「本になるのは嬉しい事ですけど、先生も毎回毎回、ご苦労な事です」

 隣に立つ真木野がぼやくように言った。

「ご苦労と言うのは?」

「先生は、こういう派手派手しい催しが好きじゃないんですよ。仕方なく出てるんです。本当は、テレビに出るのも嫌がってるんですけど、出版社の方で宣伝になるからって無理やり入れて来るんですよね」

「そうなんですか…」

 それは知らなかった。
 そもそも、ろくろく互いの事を話す時間すら無かった。

 八月の終わりから九月の間は、夫婦の日もただ一緒に時間を共にするだけだった。
 二人とも疲れすぎて、出かけるどころか喋る気力すら無かった。
 互いに相手を抱き枕にするようにして、ソファや床の上に転がっていた。そんな二人の時間だったが、それだけでも心の安らぎを覚えたのだった。

 一通りのインタビューが終わって壇上から降りた貴景を、多くの女性が取り囲んだ。

「あれみんな、女性編集者たちですよ」

 真木野は呆れたような目つきで見つめている。

「あたしがアシになる前は、あの人たち凄かったらしいです。先生の争奪戦だったって篠山さんが言ってました。担当じゃなくなって先生に会えなくなったからか、こういう催しの時には凄い群がってくるんですよ」

 口調も眼差しも憎々し気だ。その態度を少しだけ疑問に思う。
 ただのアシスタントの反応を超えているような気がしなくもない。

「柊子さん」

 和人が声を掛けてきた。

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