第30話

文字数 1,271文字

「お昼過ぎちゃったね。お腹空いたでしょ。何を食べようか」

「そうですねぇ…。和食の気分かな、やっぱり。でもこの時間帯って中休みだったりしませんか?」

「うーん…。ああ、いい釜めし屋を知ってる。どうだろう?」

「いいですね」

 美術館から駅へ向かう途中の、少し小道に入った所に、その釜めし屋はあった。入口の左右に笹竹が植わっていて風情のある店だった。

「大蔵さんって、食べ物屋さん、よく知ってますよね」

 本当に感心するほどだ。どうしてこんなに美味しいお店をたくさん知っているのだろう。

「そうかい?まぁ、食道楽だからかな。ご存知の通り社交的ではないから、もっぱら一人で行く事が多いけどね。穴場を探すのが趣味と言えるかもしれない」

「え?家族で行ったりしないんですか?」

「そうだね。子どもが小さい時は、家族を連れて行くこともあったけど、もう何年も、そういう事は無いかな。妻と一緒でも面白くないし、子どもは思春期に入ったのもあって父親なんて相手にしてくれない」

 苦笑いを浮かべている。

 前々から夫婦の関係が冷たいのは知っていたが、『妻と一緒でも面白くない』という部分が妙に柊子の胸に突き刺さった。

 結局は、そういう事なのだろうか?
 貴景も、柊子といても面白くないのかもしれない。
 男の欲求として体は欲しても、楽しい時間は真木野親子の方にあるのかもしれない。

 実際、真木野家で子供を相手にしていた貴景は、満ち足りたような顔をしていたように見えた。

「どうしたの?急に沈んだね」

「すみません。美味しいものを頂いてる時に」

「なんか、苦手なものでもあった?」

「いえ、そうじゃないんです。どれも凄く美味しいです」

 柊子は食べる事に集中することにした。

 具だくさんの釜めしに、天ぷらと煮物に漬物、汁物、果物までついていて、音が鳴るほどの空きっ腹に次々と納まっていく。
 夢中になっている柊子を見て大蔵も食べる事に集中した。

 無言での食事を終えたあと、大蔵に連れられて落ち着きのあるカフェに入った。日曜日の割には幾つか空席があり、奥まった所に革張りのソファ席が空いていたのでそこへ座った。

「うわぁ、なんか座り心地が…」

 良すぎて思わず声が出た。柊子の反応に大蔵はにんまりと笑った。

「そうでしょう。ここのカフェの椅子は座り心地が良くてね。お気に入りなんだ」

 会社で座っている椅子は普通の事務用の椅子で、一日ほぼ座って仕事をしている身には座り心地は最低かもしれない。

 大蔵は背が高いのもあって、椅子の高さを一番低くしてもまだ高く、作業がしにくくて困っているといつも(こぼ)していた。どうしても猫背的な姿勢にならざるを得ず、腰や背中が痛くなるから、休日はマッサージによく行くらしい。

「そう言えば、君がお見合いしたホテル、すごく座り心地の良い椅子だったって言ってたよね。お見合いの感想で椅子の評価が出て来るんだから、君は本当に愉快だよ」

「あはは…、ですよね。変だとは思いますけど、でも何より一番感動したのが椅子だったんで…」

「目の前に絶世の美男がいたのに?」

 冷やかすようなセリフに、苦笑する。

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