第13話
文字数 1,942文字
「え?そうなの?大丈夫?…心配だな…」
コーヒーを持って書斎のドアをノックしようとした柊子の耳に、中から貴景の声が聞こえてきた。なんだか不穏な雰囲気が感じられる。
柊子は小さくノックをして、そっと扉を開けて静かに中へ入ると、貴景はスマホで誰かと話していた。
「なんなら、これから行こうか?」
その言葉に、何か大変な事が起きたのかもしれないと柊子は察した。
身内に何かあったのだろうか?
貴景の両親は北海道に住んでいる。父親は大学教授で母親は専業主婦だ。
兄が一人いてアメリカに家族と共に駐在していた。どちらも遠い。簡単に『これから行こうか』と言えるような場所ではないが、一体何があったのだろう。
「ほんとに大丈夫なの?…うん、そうか…、そうだね。わかった。じゃぁおやすみ」
貴景は少しの時間スマホの画面を見つめたあと、柊子の方へ顔を向けた。
「コーヒー、ありがとう」
いつもと違って、不安そうな感情が漂っている。
「あの、何かあったんですか?」
「うん…、実は真木野さんの子供がさ。熱を出したって」
「え?真木野さんのお子さんが?」
思いもよらない話に柊子は唖然とした。
一緒に住み始めてもうすぐ一か月になるが、柊子はアシスタントの真木野とはまだ顔を合わせた事が無かった。だから彼女がどんな人間なのか全く分からないし、貴景との仲もよく分からない。
その真木野の子が熱を出したと言う。
貴景は雇用主なんだから、そういう連絡を受けるのも当然なんだろうが、連絡してきた時間がおかしいだろう。
「真木野さんのところ、ダンナさんが単身赴任なんだよ。だから一人で子育てしてて大変でね。二歳の男の子なんだけど、よく熱を出すんだ。この間まで胃腸炎で入院してたから余計に心配で…」
柊子の胸にモヤモヤが湧いてきた。
この人は、とても優しい人なんだな、アシスタントのお子さんの心配までして。
そう思いつつも、何でそこまで?とも思う。
だって、確か、仕事が押しているって話ではなかったか?
妻と一緒に寝られないほどなのに、こんな夜中にアシスタントの子どもの熱が心配とは。しかも確か『なんなら、これから行こうか?』と言っていたような…?
「あ、あの…、行ってあげなくて大丈夫なんですか?」
あえてそう訊ねてみた。
「うーん、僕も心配だから行こうかって言ったんだけどね。真木野さんは、大丈夫って言うんだよ。まぁ、僕の仕事の進捗具合も心配してくれてるからね。強がってるんじゃないのかな。退院したばかりだから、本当に心配で…」
(私は冷たい人間なんだろうか…)
こんなにもアシスタントの子どもを心配している優しい人に、柊子は共感できないでいる自分が情けなく思えた。
「ごめん、迷惑をかけてしまったね。君はもう休んで。明日の仕事に響くといけないから」
「あの…、貴景さんも、あまり根を詰めないでね。じゃぁ、おやすみなさい」
柊子は消沈している貴景に、複雑な思いを抱きながら書斎を後にした。
だがその後なんだか眠れない。
どうにも、どうしてそこまで?との疑問が頭の中に渦巻いてきて、悩ましくて仕方がない。
寝つきが悪かったが、いつもの時間にきっちりと目が覚めた。
カーテンを開けると外は雨。梅雨も本格化してきたようだ。心が重くなる。
着替えて食堂へ行くと貴景が朝食の支度をしていた。
「おはよう」
柊子に気づいて振り向いた貴景は、眠そうな笑顔で挨拶してきた。
「おはようございます。どうしたんですか?」
貴景はいつも遅くまで仕事をしているので起床時間も遅く、柊子と顔を合わすことが無い。大抵、朝食の支度は柊子がして、貴景の分はラップをかけてテーブルに置いていくのが常だった。
「うん、結局なんか心配で、寝れなくてさ。仕事の合間にLINEのやり取りをしてたのもあって、気づいたら朝になってしまったんだ…。あ、真木野さんの子ども、明け方には熱が下がったって。大事を取って今日は保育園を休ませるから、真木野さんも来ない。だからできれば今日は早めに帰ってきてくれたら助かるかな。夕飯、作るのが面倒だったら買ってきてもいいから、お願いできるかな」
トロンとした眠そうな顔だ。
それにしても、だ。
自分の子どもであっても、発熱くらいで仕事を疎かにするものなのだろうか。ましてや、他人だ。不思議に思うし、理解できそうもない。
「わかりました。今日は定時で帰ってきますね」
「すまないね。君に負担をかける事になってしまって」
「それくらい、気にしないで」
「ありがとう」
優しく微笑み返されたが、どこか他人行儀に感じてしまうのはなぜなんだろう。
互いに眠いからかもしれないが、静かに淡々と過ぎていく朝食の時間を重たく感じて、柊子は急くように食事を済ませて家を出たのだった。
コーヒーを持って書斎のドアをノックしようとした柊子の耳に、中から貴景の声が聞こえてきた。なんだか不穏な雰囲気が感じられる。
柊子は小さくノックをして、そっと扉を開けて静かに中へ入ると、貴景はスマホで誰かと話していた。
「なんなら、これから行こうか?」
その言葉に、何か大変な事が起きたのかもしれないと柊子は察した。
身内に何かあったのだろうか?
貴景の両親は北海道に住んでいる。父親は大学教授で母親は専業主婦だ。
兄が一人いてアメリカに家族と共に駐在していた。どちらも遠い。簡単に『これから行こうか』と言えるような場所ではないが、一体何があったのだろう。
「ほんとに大丈夫なの?…うん、そうか…、そうだね。わかった。じゃぁおやすみ」
貴景は少しの時間スマホの画面を見つめたあと、柊子の方へ顔を向けた。
「コーヒー、ありがとう」
いつもと違って、不安そうな感情が漂っている。
「あの、何かあったんですか?」
「うん…、実は真木野さんの子供がさ。熱を出したって」
「え?真木野さんのお子さんが?」
思いもよらない話に柊子は唖然とした。
一緒に住み始めてもうすぐ一か月になるが、柊子はアシスタントの真木野とはまだ顔を合わせた事が無かった。だから彼女がどんな人間なのか全く分からないし、貴景との仲もよく分からない。
その真木野の子が熱を出したと言う。
貴景は雇用主なんだから、そういう連絡を受けるのも当然なんだろうが、連絡してきた時間がおかしいだろう。
「真木野さんのところ、ダンナさんが単身赴任なんだよ。だから一人で子育てしてて大変でね。二歳の男の子なんだけど、よく熱を出すんだ。この間まで胃腸炎で入院してたから余計に心配で…」
柊子の胸にモヤモヤが湧いてきた。
この人は、とても優しい人なんだな、アシスタントのお子さんの心配までして。
そう思いつつも、何でそこまで?とも思う。
だって、確か、仕事が押しているって話ではなかったか?
妻と一緒に寝られないほどなのに、こんな夜中にアシスタントの子どもの熱が心配とは。しかも確か『なんなら、これから行こうか?』と言っていたような…?
「あ、あの…、行ってあげなくて大丈夫なんですか?」
あえてそう訊ねてみた。
「うーん、僕も心配だから行こうかって言ったんだけどね。真木野さんは、大丈夫って言うんだよ。まぁ、僕の仕事の進捗具合も心配してくれてるからね。強がってるんじゃないのかな。退院したばかりだから、本当に心配で…」
(私は冷たい人間なんだろうか…)
こんなにもアシスタントの子どもを心配している優しい人に、柊子は共感できないでいる自分が情けなく思えた。
「ごめん、迷惑をかけてしまったね。君はもう休んで。明日の仕事に響くといけないから」
「あの…、貴景さんも、あまり根を詰めないでね。じゃぁ、おやすみなさい」
柊子は消沈している貴景に、複雑な思いを抱きながら書斎を後にした。
だがその後なんだか眠れない。
どうにも、どうしてそこまで?との疑問が頭の中に渦巻いてきて、悩ましくて仕方がない。
寝つきが悪かったが、いつもの時間にきっちりと目が覚めた。
カーテンを開けると外は雨。梅雨も本格化してきたようだ。心が重くなる。
着替えて食堂へ行くと貴景が朝食の支度をしていた。
「おはよう」
柊子に気づいて振り向いた貴景は、眠そうな笑顔で挨拶してきた。
「おはようございます。どうしたんですか?」
貴景はいつも遅くまで仕事をしているので起床時間も遅く、柊子と顔を合わすことが無い。大抵、朝食の支度は柊子がして、貴景の分はラップをかけてテーブルに置いていくのが常だった。
「うん、結局なんか心配で、寝れなくてさ。仕事の合間にLINEのやり取りをしてたのもあって、気づいたら朝になってしまったんだ…。あ、真木野さんの子ども、明け方には熱が下がったって。大事を取って今日は保育園を休ませるから、真木野さんも来ない。だからできれば今日は早めに帰ってきてくれたら助かるかな。夕飯、作るのが面倒だったら買ってきてもいいから、お願いできるかな」
トロンとした眠そうな顔だ。
それにしても、だ。
自分の子どもであっても、発熱くらいで仕事を疎かにするものなのだろうか。ましてや、他人だ。不思議に思うし、理解できそうもない。
「わかりました。今日は定時で帰ってきますね」
「すまないね。君に負担をかける事になってしまって」
「それくらい、気にしないで」
「ありがとう」
優しく微笑み返されたが、どこか他人行儀に感じてしまうのはなぜなんだろう。
互いに眠いからかもしれないが、静かに淡々と過ぎていく朝食の時間を重たく感じて、柊子は急くように食事を済ませて家を出たのだった。