第85話
文字数 1,490文字
「勘違いをさせてきたんだ。君の言う通りに。自分では全然、分からなかったよ。人の心を小説で描いているっていうのにね。現実では全然ダメなんだ。昔からそうだった。人と関わるのが苦手で、でも付き合わなければならないから表面だけを取り繕う。僕の見た目で寄って来る人間が多い中で、真木野さんは違った。大らかで頼りがいがあって、僕は気取る必要も無くて。だから、心を許していたと思う。でも異性としての感情は皆無だった。それは信じて欲しい」
柊子は頷いた。
最初は怪しいと思ったが、どうしたってそういうニオイは感じられなかった。
「彼女には、家庭の暖かさのようなものが感じられて、タカちゃんは人懐こいのか、すぐに懐いてきて、だから可愛くなった。彼らと過ごす時間に幸福感があったのは否定しないよ。仕事も充実していたから、結婚なんて考えてなかった。だから、君に、君にこんなに心を奪われるようになるとは、夢にも思っていなかった」
貴景の瞳が揺れている。
「もっと早く、言えば良かった。僕の気持ちを。何となく伝わってるような気がして、照れくさくて、言えずにいたのを後悔してる。僕は君が好きだ。愛しく思ってる。君と結婚できて良かったって、ずっと思ってた。だから、少しでも君と一緒の時間が欲しくて、夫婦の日を作った。だから…、別れたくないよ。ずっと一緒にいたい。この先ずっと、一生君と…」
揺れる貴景の瞳が、強く訴えている。愛していると。
柊子は目を瞑った。吸い込まれそうな瞳から、一旦逃げた。
貴景の気持ちは嬉しいが、流されたくない。
だが、次の言葉に衝撃を受けた。
「真木野さんとは、縁を切った」
「えっ?」
驚愕で思わず目が開く。
「自分と再婚して欲しいって言われた時に、目が覚めたよ。自分がしてきた事が、いかに愚かしい事だったか。仮に僕が独身だったとしても、同じように縁を切ったと思う。僕は、卑怯だった。本当の家族になる気なんて毛ほども無いのに、それを望んでいるような錯覚を、本人や周囲に与えていたんだから。況してや今は君という妻がいる。そんな事を言ってくる女性をアシスタントにしておけない」
柊子は唖然とした。まさか、そこまでしていたとは。
あんなに大切にしていた相手だったのに。
「ビックリしてるね」
貴景は笑った。今日初めて見る笑顔だ。
「そりゃぁ…、ビックリしますよ」
「ごめんね。でも本当の事だよ。ほとぼりが冷めたら、また雇うなんて事も無いし、向こうからの連絡も全部拒否してる。誤解させてしまった事を悪いと思っているけど、もう関わらない方がお互いの為だ。だからさ。家の中、散らかってるでしょう。僕がやらなきゃいけないんだけど、君の事が気に掛かって何も手に付かなくなっちゃってね。食事も適当だったから痩せてしまった…」
自分の頬からいつまでも離れない貴景の手の上に、柊子は自分の手を重ねた。
憔悴しきっていたのは、全部柊子がいないからだった。
真木野の事も、柊子が思うほどの存在ではなかった。
貴景の心は、とっくに柊子の方だけを向いていたのだ。
「君が誰より大切なんだ。君がいてくれないと、仕事も手につかない。だから、前言を撤回して欲しい。もう一緒にいられない、なんて言わないで欲しい。お願いだ」
貴景は柊子と額をつき合わせた。
その瞬間、柊子の心臓が大きな音をたてた。
もう、真木野の事で一喜一憂する心配は無くなった。
誰よりも大切だと言ってくれている。
――あー、あたし、やっぱりチョロいな…。
私をチョロくさせるのは、戸部駿一とこの人だけだ…。
そう思いながら、了解の思いを込めて、そっと唇を寄せたのだった。