第80話 忘れえぬ人々 国木田独歩

文字数 614文字

 日はとっぷり暮れて二人の影が明白と地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我が物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放っている。二人は気がついて直ぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ち上る噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃の大空を衝いている様が、いかにも凄まじく又美しかった。長さよりも幅の方が広い橋にさしかかったから、幸いとその欄に寄りかかって疲れ切った足を休めながら二人は噴煙のさまの様々に変化するを眺めたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こえるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。暫くすると朗々な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙を眺めたままで耳を傾けて、この声の近づくの待つともなしに待っていた。
人影が見えたと思うと「宮地やよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡を長く引いて丁度僕らが立っている橋の少し手前まで流して来たその民謡の意と悲壮な声とがどんなに僕の情を動かしたろう。二十四五かと思われる屈強な壮漢が手綱を牽いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっと見詰めていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もハッキリとは知れなかったがその逞しげな体躯の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
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