第61話 富士山へ エッセイ

文字数 3,143文字

 埼玉に住む息子が正月帰省した折、四方山話のなかで妻が「この年になるまで、富士山に一度も登った事が無いわ」と何気なく話していた。
 実は、七四歳になる私も登った経験がない。東久留米市にも住んでいた頃、愛犬と朝の散歩途中、建物の隙間から富士山が小さく見える。両手を合わせ拝みたくなる神聖な山の風情は、心癒やされる眺めである。
 しかし、あの頂上まで登って見たいという気持ちは、全くなかった。高くて険しい山、素人が登るのは無理だろう。最初から諦めていた。
 三千m級の山など登った事も無いし、登るなら一生一度の大冒険である。いつか、箱根に行った時、飛行機の中から見た時、関東に住み早朝に見た時、何十回見てもその雄姿には感動し、憧れを抱いていた。しかし近寄りがたい存在で、自分には頂上を極めるのは不可能だと、諦めていた。人生の何事においても、頂上を極めることは自分には無理だという弱い気持ちがあった。
六十歳定年で、故郷の福岡に妻と戻った。時が過ぎ、次の年は後期高齢者である。正月も過ぎた三月、息子から妻に誘いのメールが入った。「八月に富士山に登ろうよ」と。妻は、「息子と一緒に行っても良いかしら」と、私に聞いた。ということは、私を抜きにして、二人で楽しく山登りをするつもりだったのだろうか。置いてきぼり?何か、最初から外されたようで癪にさわる。「ママは、大丈夫なの?腰が痛いとか、いつも言っているじゃない。俺は大丈夫だけどさ」と返した。
 私は二年前、腹回りの皮膚がただれる帯状疱疹の病気の後、神経痛となり全身の関節が痛み苦しめられた。朝起きる時、関節が痛くて十分間、苦闘し漸く座れた。三十分車を運転すると腰痛が酷く、妻に代わって貰った。整形外科では、「首の頸椎ヘルニアで、痛みが発生。治癒は手術しかありません」と診断された。「首の手術なんて嫌だ。障害が残るかもしれない」と恐怖を感じた。麻酔科に隣接するフィットネスがあり、トレーナーは筋肉を伸ばす米国式の施術資格のある福井さんという人だ。苦痛に耐えトレーニングを続けた。二年後、奇跡的に元の体になった。その後、クラブに通い、神経痛がぶり返さないよう運動を続けている。「以前よりも元気になったじゃないの」と妻から言われる。
 「高齢者ではあるけれど、私も命がけで富士登山に挑戦したい」。私は妻子に宣言した。息子は山の経験は少しだけある。妻子と一緒なら心強いと思った。
 それからトレーニングの日々が始まった。まず高校の頃に登った地元の福智山(九百m)に、夫婦で挑んだ。次第に気持ちも固まり、登山用具一式も買い、万歩計で一日七千歩を歩き始めた。毎週のように、日帰りで皿倉山、英彦山、久住山などに登った。汗だらけになり、登り坂に苦しみ、足の筋肉痛に耐え、頂上に到達する。その達成感は、何ものにも代えがたい充実を感じる。山の天辺で頬張るオニギリ。下界の雄大な眺め。林間を歩く時の、爽やかさ、奇麗な空気、山登りの素晴らしさは、やってみて、初めて分かるような気がする。「第二の人生の恵の宝物じゃないだろうか」と感動もした。
 さて本番の富士山登山である。今回は、息子に背中を押され、「不可能だと思うことに挑戦する気持ちを持ってみよう」と、無言で教えて貰った気がした。老いては子に従う。困難を乗り切れるだろうかと一抹の不安はあった。
 最初に申込んだのは、高齢者向き富士登山二泊コースだった。台風が接近してきて、その催行が中止と決まった。入山期限は八月末までである。急遽、若者のグループ登山に同行することになった。八月二七日、吉田口から登り、七合目の山小屋で四十人が寝袋を並べ就寝。気は若いつもりだが、現役を引退した年寄の楽隠居の日々を過ごしている。寝袋の鮨詰め状態は、一睡も出来ず。ナマクラ爺に、強烈な「喝!」を入れられた気分がした。
 山小屋の中は、暖房もあり温かいし、寝袋で寝るなんて、幸せなことだ。下界は夏で半袖なのだろうが、高山は零下の寒さである。山を愛するアルピニストなどは、凍える寒さの中、三角テントを張り、雪の地面で寝るのだろう。それを思えば生ぬるい環境だ。
 深夜に、一人抜けだし小屋の外へ出る。漆黒の闇の世界、二千八百mから見る雲海。何ともいえない冷気。そこに私が居る。人間の知恵では計り知れない神秘の世界がここにある。あくせく蟻の如く働き、現世の煩わしさに浸った平凡な生活。心を洗い、自分を見つめ直せというような厳かな神秘の世界。生きている内に、こんな貴重な体験をするなど思いもしなかった。
 午前二時に小屋を出発し登山道に出る。既に、たくさんのキャップライトが続いている。我々のグループは殆どが若者で、リーダーは、数多くの山を越えたレジェンドだという。登山ルートでは、数珠つなぎの人々がゆっくり頂上を目指している。「こんなのんびり登って居ては、日の出に間に合わない。我々は別のコースを行く」とリーダーが決めた。ルートを外れ、誰もいない帰りのコースを、逆に登り始めた。
 若者は男女とも元気で、足早に登って行くし、岩も軽々と乗り越えていく。私と妻だけが年寄であり、体力差は歴然である。しかし必死の思いで、無理でも付いて行かねばならない。周りは暗闇の世界、キャップライトで足元だけを見詰めて歩き、登る。坂は急で大きな岩をまたがなければならない。股関節が痛くなる。足も思い通りに上がらない。グループの人に次々に抜かれていく。高齢者だからと、誰も優しい言葉など掛けてくれない。息子だけは、我々夫婦を、常に見守りながら、優しく声をかける「慌てなくていいよ。頂上は逃げないから」と笑う。こちらは笑いごとではないのだ、悲愴なのだ。
 いよいよ頂上手前、百メートル付近だと思う。老体に鞭打ちすぎたのだろうか、心臓が悲鳴を上げだした。十歩登ると、心臓が激しく鼓動する。息子も妻も平気な顔をして、私の方を見る。「『俺は大丈夫だけれど』と言っていたのは誰だっけ」と、妻は言いたそうである。平地では元気なのだが、極限の世界ではそうはいかない。辛く、やむなく三十秒ほど立ち止まる。三人だけ、周りは誰もいない。しばらくすると心臓も回復した。気を取り直し、坂を登る。それでも坂になると負荷が掛かり、やっぱり十歩登ると、呼吸出来ないほど苦しくなる。妻は、「諦めて下山すべきでは」と、口には出さないが心配したそうだ。三千mの高山は、酸素が薄くなり、酸欠症状になっていた。暗闇に家族だけ。息子と妻に見守られながら、このままご臨終などと言われたくなかった。下山もやむを得ないか。その一方、ここまで来たからには、富士の頂上まで辿り着きたい。まさに「這ってでも」という気分にもなった。
 ゆっくり、ゆっくり、登る。妻子が前後についてサポートする。家族は有難い。「強い絆」をこれほど感じたことはなかった。家族愛を胸に秘め、富士山の頂上まで、ようやく辿り着いた。
苦しい思いをして辿りついての頂上。腹一杯の「感動の雄叫び」でも上げたい所だ。しかし情けないことに頭は朦朧としている。「日本一の富士山に登れたぞ!」とへとへとになりながら呟くのが精一杯だった。
 当日の天気は曇り空。お目当ての富士山頂からの壮大な眺望は見ること出来なかった。石のゴロゴロした道で、景色も見えず登ってきた。この苦しいだけの登り道は面白くもない。頂上のご褒美の展望もなければ何なのだ。諺に「富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」と、江戸時代から言われているそうだ。あの憧れの富士山へ登ったということが重要なのだ。
 「久須神社・富士頂上」の焼き印を、六角棒の木片に押して貰った。私の人生の勲章ともなりそうな逸品を、手にした瞬間だった。
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