第1話 恵まれない子供たちに エッセイ 

文字数 3,479文字

 十五年も前のことである。叔母が亡くなって半年が過ぎた頃、入居していた高齢者住宅の湯河原悠々の里から封書が転送されてきた。
ユニセフから叔母宛に来た手紙だった。葬儀を執り行った私は、亡くなった後の叔母の身の回り品や家具や遺言の後始末を行った。「千葉の子供の施設や鎌倉の教会に希望があれば寄贈してください」と書かれていた。ユニセフと関係があったとは書いてなかった。亡くなる数ヶ月前に、便箋に遺言をしたため、自分が死んだ後の処理を詳しく書いてあった。享年八十一歳だった叔母は、クリスチャンネームがマグラダのマリアではなかったかと思う。
子供の頃から姪や甥は、よく面倒を見て貰っていた。甥の私は二十歳になるまで正月に、家を訪ねるとお年玉一万円をくれた。優しく賢い叔母で、我々を遠くから見守ってくれている様な感じの存在であった。私が高校生の頃、敬愛する伯母は、教え子四人位と一緒に久住山へ登るというので、連れて行ったもらったことがある。白黒写真で学生帽を被って、山の頂上の岩に腰掛けている自分がいた。もう六十年以上前の事だった。詳しい記憶は消滅し写真だけがわずかな青春の思い出を教えてくれる。数年前、妻と久住山に登ってみたが、頂上は岩だらけだった。この場所に座っていたのかと懐かしかった。遠くに九重連山がお釈迦様の寝姿のように広がっている。叔母も雄大な景色を見、山登りを楽しんだのだろう。
叔母の青春時代は戦時中であったためか、結婚することもなく、生涯を終えた。 
悠々の里で遺品を整理するときに出てきた便箋には、綺麗な文字で自分の一生の思い出を数枚に書いてあった。「私の与えられた人生は、全て神様と皆様のおかげで、私なりに最高に幸せそのものでした。心から感謝し御礼申しあげます」
と、決して悲しみを帯びた内容ではなく、生きていたことの喜び、人間は生まれ出て、世の中で長い時を過ごし、そして死んでいく運命を、冷静に受け止め、意義ある人生を全うされたことを感じた。私もこんな人生を送れているだろうかと考えた。死ぬ時に、妻に一緒に生活して良い人生だったよといえるだろうか。
叔母は実母(私の祖母)と七十歳位まで一緒に住み、実母が亡くなった後、湯河原の悠々の里へ入居した。その際、私が身元引受人になっていた。生前の希望で、施設内の集会所で無宗教の葬儀を行い、その後、我が家の先祖墓へ納骨し、仏壇に位牌を飾っている。
長い間、ユニセフとのお付き合いがあったようだ。インドの貧しい少女の里親となり、手紙や、寄付をしていたらしい。叔母は英語の教師をしていたので、英語のやりとりだったのだろうか。亡くなった情報を得て、ユニセフから「長い間お世話になりました」という子どもの感謝の言葉が書かれて同封されていた。
未婚の叔母は子供に対して、どういう思いを持っていたのだろうか。ユニセフでは飢餓でやせ細った子を映像で流し、募金の広告している。事実なのだろうが、寄付金の実際の使い道は分からない。悲惨な状態の子供は大勢居ると思う。
北九州でもニュースで子供食堂という記事が時折、載る。しかし私の周辺には、そのような子供がいる感じがしない。認識が足りないのだろうか。母子家庭の収入の少ない世帯では、生活が厳しく、弁当も作ってやれない親もいるのだろう。無関心でいる自分が申し訳ないような気がする。[世の中の為、役立つことをすべきじゃないか]と、心が説教する。年金を貰い、贅沢は出来ないが普通に妻と暮らしている。困っている人に、何かできることがないかと、考える。ボランティアの場合、身体と時間が拘束される気がして、抵抗がある。
COCO壱カレーの宗次社長の講演会を聞いたことがある。教会の前に、赤子の時、捨てられた。三歳で養父母に引き取られたが、賭け事好きな養父は貧乏で、よく殴られた。養母も離婚し、食うや食わずの悲惨な生活を養父と送る。養父の死後、豆腐屋でアルバイトをし、高校を卒業した。社会に出て、前向きに考え働き、結婚した。奥さんと作る旨いカレーにヒントを得て、店を出し、会社として発展させ、成功された。裕福になっても、近所の雑草とりから、恵まれない子への寄付を数多くされた。誠実に謙虚に商売を行い、儲けたい気持ちはなかったという。小さな目標を達成させ、コツコツと地道に継続し、人に認めて貰うこと。「苦労した生い立ちなので、人に対する感謝の気持ちを持ち続けることができた」という。身の回りは質素で、寄付をすることが喜びであるとのことらしい。
私自身の子供の頃を振り返ってみると、親は三度三度毎日、粗末ながら食事をさせてくれた。小学低学年の時、病気になった。熱が出て、胸が苦しく死ぬのではないかと布団の中で思った。母が心配そうな顔で、濡れタオルを額にのせてくれた。医者にも来てもらい、少しずつ快方に向かった。母の看病を少ない幼児記憶の中で鮮明に残っている。
父も共同で子供を育てたのだが、母の愛情の方が強いのか、父への幼児記憶には、怒られたことしか残っていない。遊び過ぎて、夕食時間に間に合わなかった。時を忘れて友達と遊んでいた。家族も心配したのだろう。みんなは既に食事をしている。折り畳み食卓の端に黙って座った。謝るということを知らなかった。父が恐ろしい顔をして、「お前は。晩飯は食わんでもよか」と厳しく叱る口調で言った。理由は分かっているが、父も「これが悪いから気をつけろ」という説教をしなかった。涙を流しながら部屋の隅に、腹を空かしたまま座っていた。皆の食事は終わり、父は他の部屋に行った。すると母が「もういいから、ご飯を食べんね」と優しく言ってくれた。父は怖い存在だが、母には怒られたことがなかった。
テレビで動物のドキュメントを見ていると、ヒグマは牡熊が己の性欲を満たすために、自分の子供を殺してまで、雌熊に迫る。母親は必死で子を守ろうとするが、牡熊は大きく、雌熊は小さい。力尽き、子熊が殺されてしまう。雌熊は、そこで発情し、雄熊を受け入れるという。悲しいことだが、野蛮な自然界はそういう残酷物語があるらしい。最近では、人間界でも、妻の連れ子に再婚の夫が暴力を振るい虐待することがあるという。子供は、暴力を振るう大人には抵抗もできず、どんなに恐怖におびえ、心に暗い傷として残っていくことだろう。
カレー屋の社長の話や、ニュースでの子供への虐待などを見ると、私も何かしなくてはという気持ちに駆られる。ランドセルを毎年、孤児院へプレゼントする匿名の男性もいる。ネットを見ると恵まれない子に寄付が出来ると掲載されている。実際はどうなのか、ネットで調べ近辺の施設へ行ってみようと思い立った。岡垣町に報恩母の家というのが表示されている。車のナビで住所を設定し、目的地近辺へ着いた。歩いて捜したが、該当する施設はない。[存在しない施設で寄付を騙し取る類いか]と思った。駅前交番で確認すると、若い警官が親切にスマホで捜してくれた。「在りますよ。あそこの信号を左にまがり、暫く行くと、右手の方に在るようです」と教えてくれた。電柱の看板に名前が表示されていた。
どんな状況なのか、聴いて見たいと考えた。玄関先にある広いロビーで、中年の女性が五歳くらいの子と座り込み話をして居た。事務所では四人の女性が忙しそうに仕事をしている。窓口で「ここは児童施設ですか」と確かめ「テレビで児童虐待が多いと聞いたのですが」とおずおずと尋ねた。興味半分ではない証に「臨時に僅かの寄付をすることが出来るのですか」とも話してみた。「家長さん、お客さんが来られていますが」とロビーで幼児と遊んでいる女性を紹介した。
「三歳から十八歳迄の子供を預かっています。親の暴力から逃れるとか、福岡県の色々な地域の子が寝泊まりし、学校に通っています。県の紹介で入居し、個人的な入居は扱っていません。現在、六十二名の子供が寝泊まりしています。我々は親身でお世話しますが、やっぱり親が一番いいのですね子供には。県とか国の補助金で成り立っています」という。母の家は百年年続いているそうだ。「高校を卒業して、中には大学まで行きたいという子もいます。貴重な寄付などがあれば彼らの夢を叶えることも出来ます。有難いことです」。
私は財布から持っていた2万円を出した。「領収書は要りません」と申し出た。実情を聴いているうちに、涙が出そうで、話す言葉に詰まってしまった。また、機会が在れば、恵まれない子供たちに、寄付を続けていきたいと思う。 R4.03.23 下邑成秋
       
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