第45話 暗黒合宿 村田喜代子

文字数 1,997文字

数年前から大学で教えている。春休みにそのゼミで合宿に行こうという話になった。四年生が卒業するのでお別れ旅行も兼ねていた。それで日にちは三月初旬、卒業式の前ということに決まった。今年のことではない。昨年三月の話である。行き先を思案していると、地元の山口県には日本最大の鍾乳洞・秋芳洞があって、そこの「秋芳洞科学博物館」のK館長さんが半日くらいならと案内役を請け負ってくださった。洞窟というと、まず闇である。私のゼミは小説を書くところで、小説に闇はつきものだ。夜の闇や、都会の闇もあれば、深山の霊気迫る闇もあるし、昼間には物陰の闇があり、人の心にも闇がある。だが地下の洞窟の暗闇にはわずかな明るみもない、地上のどんな闇よりも厚くて深い。文芸創作ゼミにとっては得難い体験になるだろう。ただ私は出かける前に、館長に相談することがあった。じつは私は閉所恐怖症なのである。子供の頃から押し入れはダメ。未だに夜寝るときは蛍光灯の豆級だけはつけておく。真っ暗闇は閉所になるからだ。電話でそれを聞いた館長さんの声は屈託がない。「秋吉台には発見されている洞窟だけでも四百個あります。大丈夫。そのなかの広くてゆったりした穴をえらびましょう」私は肩から提げる大きなライトを二個も用意して出発した。現地には一般の宿のほかに県の宿泊施設も完備している。ゼミ生は全員で二十人、張る未だ浅いカルスト台地に集結すると、鳥打帽子にブレザー姿という軽装で館長さんが現れた。こちらは指示された通りの、長靴に軍手の洞窟スタイルだった。このぶんではちょっとした穴に潜るだけらしい。私は内心ホッとした。笹薮を分けて一列縦隊で進むと、行く手に岩壁が立ち塞がった。館長さんが指さしたのは岩壁の足元だ。そこには冷気が這い出てくるような真っ黒な岩の割れ目が大きな口を開けていた。まず館長さんが先に入って行く。穴は大きくて地下へ降りる道も広々していたが、滑りやすい。順々に学生が穴へ呑み込まれて行くと、早々に転倒する者が出る。なぜか女子よりも男子学生のほうがよく滑った。蝙蝠が驚いて飛びまわる。坂を下りた所で館長さんが話をした。「昔から地下というのは、あの世とこの世が混じり合う場所だと信じられてきました。死者に会うために洞窟へ潜る者もありました」私語の多い学生たちもしんみりとなる。そこは秋芳洞の支道で、真っ直ぐ進んで行くと琴ヶ淵という巨大な地下湖に行き着く。その先からは洞内は水没して、ケイブダイビングによる探検世界しかなくなるのだ。琴ヶ淵の静寂に立つと、幻聴で死んだ人の声を聞くという。そんな話をして洞内を進むうち、入り口から差し込むまずかな外光も届かなくなった。「ここでしばらく本物の闇を体験しましょう。五分間だけ明かりを消してください。懐中電灯が消えると、重い岩のような闇が降ってきた。湿ってびっしょりしたした、何者かの凍える息のようななまぐさい闇だ。みんなが沈黙すると、私たちの体をつないでいた見えない紐が断ち切られて、ばらばらにはぐれてしまう感じ。闇の中に独りでいる錯覚に襲われた。一分、二分、と私は暗闇の中ででたらめに数えた。三分だけは何とか堪えられたと思う。それからおぼれかけた者が窒息寸前に水面へと浮かび上がるように息を吐いて、「はい、もういいですよね。終わり!」
と号令をかけてしまった。その声でみんなが懐中電灯をパッとつけた。館長さんが拍子抜けしたような顔で私を見た。合宿の帰り、私は売店で桜井進嗣という人の、一冊の本を買い求めた。「未踏の大洞窟へ」というタイトルで、琴ヶ淵から奥に続く暗黒の水中洞を潜る体験記だった。その中に、探検活動に常に必要な三つの要素は何かという問いがある。普通は「食「もうこんな物」「飲み水」などという答えが出るが、洞窟探検で必要なものはもっと切実なものであるという。答えは「空気」と「光」と「重力」だった。この三つがすべて失われた極限の世界がケイブダイビング、つまり洞窟潜水なのである。これ以上の閉所は世にはない。洞内のある所では背負った酸素ボンベが壁につかえるほど狭い。その水中洞を仰向きに、足ヒレで水を掻きながら泳ぎ進む。ヒレで攪拌された水は泥が舞って視界はゼロだ。やがて最悪の事態がが起こった。複雑な洞内の支流に迷い込んで戻る道が分からなくなる。酸素ボンベの残量もなく、水中ライトの電池の予備がない。「もうこんなばかなことはやめよう。二度とこんな所まで来ません。だから今回だけは無事に帰して下さい。お願いです。秋芳洞の神様」と暗黒の地底で祈るのだった。彼は奇跡的に生還した。私は本を置いて、自分が洞内で体験した、たった三分間ほどの闇を想った。恐怖心は想像力の親である。秋芳洞の岩と土の体積の下に、体を動かす隙間もない支流に挟まれてもがく人間がいる。私にはその恐怖がひどくリアルに伝わるのだった。
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