第62話 嫁と姑をつないだ妖怪 エッセイ

文字数 3,060文字

 小さな口約束でも、守れないことは言わない方がいい。物心ついた頃から、父母に仕込まれた気がする。
 母は温和な性格で、我慢することもあっただろうが父と母の喧嘩を私は見たことがない。優しい母に、怒られたことが無かった。勉強が出来なくても、「あなたは大器晩成だから大丈夫よ」と励ましてくれた。姉妹は、「私たちはお母さんから厳しく叱られたこともある。あなたは長男だから、なにも言われなかったのよ」と私を逆なでするようなことを言う。 
 父は、温和で人当たりも良く、誠実な気質である。しかし、私が晩ご飯を忘れ遊んで帰った時や、だらしない行動の時は、厳しく叱った。怖い存在であった。そうした環境の下で育ち、期待には応えられなかったが、入った会社には定年迄三八年間、勤め上げた。転勤も多く、父母のいる故郷が、何故か心が落ち着き、近くに住み、偶に食事を一緒にしたい。それが、お互い幸せで良いのではないかと、在職中に思った。
 定年後、帰郷し、妻とも相談し実家から数キロ離れた所に家を建てた。ある日、実家に行くと、父は外出中。多分、黒崎でパチンコをし、昼を食べ、帰りに角打ち一杯だけ飲んで帰ってくるのだろう。週に一回だけ、父の楽しみだった。一方、母はというと、暗い部屋でションボリとした感じで、背を丸め炬燵に入っていた。なにか寂しそうに見える。「どうかしたの?」と尋ねると、「父さんは居ないし、なにもすることがない」という。
 母は、働き者だった。家事、子供の養育、実家の農家の繁忙期には手伝い、いくばくかの米を貰って生計をたすけた。近くのボタ山へリヤカーを引き、石炭のガラを持ち帰り、家の燃料にしたのも覚えている。家で十数羽の鶏を飼い、卵を食事に、また近くの雑貨屋へ卵を置かせてもらっていた。頼まれて編み物や縫物もしていた。戦後の貧困な生活の思い出として、私の頭の中に残っている。
 父はN町役場に勤め、皆のため生活費を稼ぐ。貧乏だが、平凡な日々を送っていた。私の現役時代、一年に一度、家族を連れて、実家へ二泊することを楽しみにしていた。両親もだんだん年を取っていく。子供の頃、お世話になった両親への思いは終生忘れられない。
 炬燵に入った母は、すでに八十歳になっていた。小さく見え、昔の元気もなかった。「最近、家の天井裏に何物かがいて、走り回るのが聴こえるの。何かが居る気配がする。何日も続くと、気になって眠れない日が続くの。父さんに話しても、取り合ってくれないの」と言う。八十三歳の高齢になった父は、補聴器をつけなければならないほど、耳が遠くなっている。しかし補聴器はつけたがらず、テレビを見るとき大きな音を出し視聴している。「ワシには何にも聞えないんじゃが」というだけのようだ。まあ体も老いて、動きも鈍く、高い所などへ上がるのは危ない。
 実家の建物は、年代物である。戦後、引き揚げて借家住まいであった。雨漏りのするボロな平屋だった。父は町役場に務めることが出来、収入も安定してきた。隣に住む家族が、博多に転居することになり、「家を買わないですか」と話があった。私が、小学五年生位の頃、隣の家へ、家財の移動を手伝った記憶がある。建物は戦前の建築で、頑丈な平屋である。屋根裏の梁は大きな丸太を組んで、屋根瓦を支えている。屋根の斜面と土壁の間には、幾らか隙間がある。屋根裏の風通しをよくする為なのだろう。反面そこから、小動物が侵入することがあるらしい。現在の我々夫婦が住む建物は、屋根裏と壁に隙間はなく密閉されており、昔の建て方と違う。
 昔、「猫また」という怪談があった。猫は、屋根裏に住む鼠を捕まえ、食べるようだが、だんだん年を取ってくると、妖怪に変化していき、人間をも食べ始めるという。そんな恐ろしい話しを信じたのかどうか分からないが、母は猫を恐がり、嫌いだった。
 「夜には天井裏で何モノかが、走り騒ぐ、昼間には床下で、何モノかがうごめく気配がするの。もう私は耐えられない。私の悩みを誰も聞いてくれない」と、辛そうに神経質に語る。それまで母親の困った表情は見たことが無かった。悩み事は数多くあったと思うが、腹のうちに納め、物事を良い方向へ解決していったのだろうと思う。離れて生活をしていたので、日々の暮らしの詳しくことは、分からない。
 母の悩みを聞いて、「分かったわ。私が、そのケダモノを床下から追い出してやるよ。お母さん」と、きっぱり言ったのは妻だった。私が、言うのなら、さすが男らしいと賞賛されるところだが、女性の彼女が、キッとした顔つきで宣言した。私より行動力、決断力、勇気がある。直ちに行動に移すのが、すごい。床下へ入れる場所は、どこなのかを、母に尋ねた。仏間の角の畳を上げると、板がはずせるような細工がしてあるらしい。
私は十畳の仏間の角の畳を上げて、床板を三枚ほど外した。妻はエプロンを着て、その上に新聞紙を当て、床下に潜り込んだ。妻は、先頭で匍匐前進である。私もその後に続き、腕と膝で、狭くて暗い床下を、埃臭いなかを前に進む。懐中電灯で先の方を、左右に照らすと、動物の目なのだろうか、キラッと反射し光った。「コラー!」と彼女は大きな叫び声をあげた。手に持った棒切れで床下を激しく、ぶっ叩いた。激しい音に驚いた黒い動物は、遠くの隙間の見える明るい方向へ飛ぶように逃げていった。
 「逃げ出したに違いないわ」と彼女は司令官のように宣言した。腹ばいのまま後ずさりして、床下入り口まで戻った。畳に立ち上がると、彼女の着てきた綺麗な洋服の前部がドロにまみれていた。申し訳ない。判断が鈍い俺のせいで、彼女に迷惑を掛けてしまったと後悔した。また。一面、彼女の逞しさに、大喝采の拍手を贈りたいほどだった。彼女には、何回かこんな武勇伝がある。たいしたものだと尊敬する。後で、家の周りを点検すると、家に隣接して物置があり、そのセメント壁の下に五〇センチほどの開放口があった。床下の工事などのため、潜り入っていく場所として設置したのだろう。目聡い妻は「倉庫のドアーを開け放した時、獣が床下に侵入したのね」と冷静に解明した。服の泥を払い落とし、跡片付けしたうえ、手を洗って、茶の間へ戻った。
 母は畳に座り、下の様子に耳をそばだてて、我々の捕り物劇の動向を感じとっていたに違いない。温かいお茶と饅頭を出してくれ、我々は一服のもてなしを楽しんだ。
突然、母は手を差し出し、妻の手を引き寄せ握り、感極まったように「有難う、スミ子さん。貴女だったらやってくれると思っていたの」と涙を流した。私は初めて母が涙を流すのを見た。長い人生、幾多の困難にも、文句も言わず、涙も流さず、振舞ってきた母が、妻に感謝の言葉を述べた。私も目尻が熱くなる思いがした。妻は「辛かっただろうね。お母さん」と、強く母の手を両手で握りしめ、声をつまらせながら言った。妖怪に長い間、余程悩まされていたのだろう。その後、母は安眠できているのだろう、その話しは聞くことがなかった。
 とかく姑と嫁の女同士の間柄は、どうにもし難い醜い、心の争いがあるという。姑との間には、面だってはいないが、小さなトラブルは多々あるだろう。姑の悩みを知り、身を挺して問題解決に挑む嫁の姿は、姑の堅い心を、もみほぐし、人間本来の優しさを取り戻してくれるのだろう。
 妖怪が取り持つ縁なのか、母と妻は、二人の間のわだかまりが、和み平らなっていったような気がしている。
                     令和五年十月二八日


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