第30話 同級生 神社物語 エッセイ

文字数 1,572文字

 小学校は、家から一キロ離れていた。六年間同じ組の同級生に佐野君がいた。体は大きいが優しく、頭も良かった。学校近くの神社の息子だった。仲良かった印象はあるが、朧な記憶だ。中学、高校と同じ学校に進むがクラスが違っており、話す機会は少なかった。
中学二年の反抗期に、「新聞のたたみ方が悪い」と父に叩かれそうになった。その手を払いのけた。初めて怖い父親に抵抗した。
五年間位口をきかず、母に仲立ちしてもらった。今思うと、「父母に心配を掛けた」と反省。茶の間に父が筆で書いた「誠実に事を行なう」と額が掛っていた。役所勤めの父の仕事に対する信念だったかもしれない。
また、会話のない息子への「無言の人生のアドバイスではなかったか」と思う。真面目に定年まで働けたのも父母のお陰である。親孝行したいと思い、六〇歳定年で、東京から私の故郷福岡に家を建て妻と住む事に決めた。妻は岡山出身で、知り合いはない。些細なことで口喧嘩し、妻が「私は誰と話しをしたら良いの、知り合いもない土地で」と責められ、「申し訳ない」と謝った。彼女との三十年間の結婚を大事にしなくてはと思った。
定年退職後は、時間の余裕もあり素晴らしい人生の楽園があると信じていた。だが、実際は何もない。テレビを見、庭をいじり、散歩する。生甲斐の無い退屈な時間が続く。妻以外の他人とは没交渉の孤独な老人がこんなに辛いものだとは思はなかった。認知症を待つばかりである。妻はパートで働きだし、友もでき、張り合いをもって生活している。
気が滅入る「くさくさ」した時期だった。
そんな中、同級生の佐野君から電話があった。「成ちゃん、久し振り。田舎に戻ってきたんね」と聞く「懐かしいね。 五十年ぶり」。私は激動の時期を過ごしてきて、幼い頃の単調な生活記憶は、ほとんど残っていなかった。「家で高校の同窓会をやるから、一度来てみなんね」と心温かい感じで誘ってくれた。 
月瀬八幡宮の代々継ぐ神主になっており、地元に根を下ろした生活をしている。社務所兼住宅は、大きな木造二階建て、大広間と個室も何部屋かある。高校時代の五十九期卒の同級生が、四十人以上集まっていた。私の知り合いは数人だった。それぞれが厳しい荒波の社会を乗り越えてきた強者のようで、昔話と自分の来た道の話に花咲かせている。私は小さくなり聞いていた。自慢できる同級生が集まり、その他大勢は参加しないのだろう。
しかし、同窓会の交流で、再び、人との繋がりが出来始めた。中学の同窓会、 高校の全体の同窓会にも参加できた。そこには必ず佐野君がいた「久し振り」と言って、温厚な笑顔で、話しかけてくれる。
その内、私も第二の人生で就職することができた。まだ六五歳迄働ける。生きがいが戻ってきた。佐野君の誘いで同窓会に参加するうち、私は「フォルクローレという南米音楽をやっている」と定年前の趣味を話した。
神主の彼は「毎年、秋祭りの御神幸という行事があって、御輿で部落内を練り歩く。最終日の夜、神社山頂で屋台を出し、舞台も作り、歌や踊りの演劇もある。是非参加し、演奏で盛り上げて貰いたい」と言う。
月二回、音楽の練習をしているメンバー五人に相談し、出演することにした。猛練習をし「コンドルは飛んでいく」などを神社の舞台で演奏した。鎮守の杜での祭りは最後に、景品付きのクジがあり盛り上がる。
演奏が済み、社務所の大広間に行くと、手作り弁当が用意されていた。メンバーの子供が味噌汁の御代わりをする程、美味しかった。
コロナが流行し、祭りは中止となり、佐野君からの出番要請がなくなった。彼は大腸がんを患い、あっという間にこの世を去った。
葬儀には大勢の弔問客がいた。遺影は神主の赤い装束を着て冠を被り、にこやかな笑みを湛えている。いまにも私に話しかけ「ひさしぶり」と呼び掛けているような気がした。
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