第75話 わかれ 国木田独歩

文字数 926文字

国木田独歩:1871(明治4年)、銚子生まれ、1908(明治40年)没、短編小説家、武蔵野など
「わかれ」の一文。
 彼は文学と画とを併せ学び、これを以て世に立ち、これを以て彼一生の事業となさんものと志ぬ、家は富み、年は若し。この望みは彼が不屈の性と天稟の才とを以てしては達し難きものにあらず、彼はこれを自信せり。一年の独居は愈々この自信を強め、恋の苦と悲とはこの自信と戦い、彼は遂に治子を捨て、この天職に自信を捧ぐべしと自ら誓いき。後の五月はこの誓いと恋と戦えり、而して彼みずから敗れ、遠く欧州に走らばやと思い定めき。最初は父これを許さざりしも急に彼の願いを聞き入れ一日も早く出立せよと命ずる如くに促しぬ。
 昨夜、治子より手紙来たり、今日午過ぎひそかに訪れて永久の別れを告げんと申送れり。永久の別れとは何ぞ。彼の心はかき乱されぬ。昨夜は殆ど眠らざりき。
 恋の泉はいつもいつも湧きて流れ疲れし人を待てど、この泉の辺にて行遭う年若き男女の旅人のみは幾度か幾度か代わりゆき、且つ若者に伴いし乙女初めは楽しげにこの泉をくめど忽ちその手を差し入れてこれを濁し、若者をここより追いやりつ、自己も亦た喘ぎ喘ぎその跡を逐うて苦しき熱き淋しき旅路にのぼる。わが友の上にもこの事あり、わが読みし文の中にもこの事多し。されど治子は一度われをこの泉の辺に導きしより二年に近き月日を経て今猶をわれを思いわれを恋うて止まず、昨夜の手紙を読むもの誰かこの清き乙女を憐まざらん。而してわれ今、強いてこの乙女を捨てて遠く走らんとす。この乙女を砂漠の真ん中にのこしてゆかんとす。これ誠にわれの忍び得ることなるか。
わが力何処にありや。口渇きし者の叫ぶ声を聞け、風に揉まれる枯葉の音を聞け。君なくして猶ほ事業と叫ぶわが声はこれ也。声かれ血涸れ涙涸れて而して成し遂ぐる我事業こそ見物なりしに。嗚呼されど今た君はわが力なり。あらず、君を思うわが深き深き情けこそ我将来の真の力なれ。あらず。われを思う君が深き高き清き情こそ我将来の血なれ。この血は地の底を流れ春の泉なり。草も木も命をここに養い、花もこれより開き、実を結ぶもその甘き汁は即ちこの泉なり。こは詩的形容にあらず、君よ今吾が現に感ずる処なり。
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