第43話 嬉野の旅 エッセイ

文字数 1,890文字

嬉野温泉には何回か行ったことがある。一番の思い出は、父母が元気な時、家族で行って楽しんだことである。今回は観光の視点を変えて、江戸時代の長崎街道の宿場を尋ねてということで、行ってみた。 
「雫」という和風旅館に泊まり、設備も温泉も料理も、雰囲気もよく、満足出来た、朝方、窓から見える景色は、山の温泉郷という眺めである。眼下の両岸には高い岩がそびえ、その間に狭い川が流れている。橋が掛け繋がれ、背後は急斜面の緑山が立ち上がっている。 
旅館を出て、石階段を降りると、川の少し上に、散歩用の古い石造りの小道が続いている。
嬉野温泉は江戸時代から有名だった。オランダの医師シーボルトは、長崎から江戸までの参府紀行を書いている。その本の中に、嬉野宿の温泉を「良質の湯が湧出。多くの湯治客が利用している」と記し、彼自身も温泉を楽しんだ。現在でも「シーボルトの湯」と命名した大衆温泉が営業中である。
川はこの地区では嬉野川というが正式には塩田川という。川は水嵩もなく、今の時間帯では、川の中の飛び石を伝い対岸まで渡れる。下流に向かい石道を歩くと、左右の岩の上には旅館が立ち並んでいる。更に、下ると堰がある。水を貯め利用することもあるだろう。下流から上がる水を堰き止める役目もするのだろう。嬉野川から塩田川を経由し、水は河口で有明海に流れ込んでいる。
この有明海の自然の威力はすごいらしい。私たち北九州の人間には想像できない動き方をする。干潮と満潮時の潮位の差が、六メートルにもなり、日本一だという。満潮時は有明海の海水が、川をのぼり、嬉野市役所の近くまでくるという。それは「怒涛の如く」という。それを毎日繰返す。近くの塩田宿では、満潮時に船が、有明海から嬉野まで自動的に荷物を積んであがってくる。引き潮になると今度は、陶器や農産物の荷物を積んだ船が有明海に向かって進む。江戸時代、物流として利用されていたことがよく分かる。
その後、嬉野の宿場探しに向かった。朝方、歩いた川沿いを、下って十分ほど進むと、対岸に古めかしい建物がある。三メートル位積んだ石垣の上に立つ二階建てである。「井出酒造」という看板が目に付いた。川沿いに公園がある。木々はあるが、寒々としている。橋を渡り左に行くと、和田屋別館の大ホテルが見える。その脇に細道があり、入口の石柱に、長崎街道と彫ってある。ここが長崎街道の嬉野宿入り口なのだ。
街道は、総延長六百メートル、本陣、旅籠、各種の店が、両側に並んでいたのだろう。今では、洒落た店に変っている。その中の一つに、豪壮な建物がある。井出酒造である。店の間口は狭いが、棚や台に、日本酒が並んでいる。酒蔵は広く、部屋が続き暗がりに樽やら並ぶ。「こんにちは」と声を掛けると、高齢のご婦人が出て来た「あらいらっしゃい」と応える。上品な感じである。「川の向こうから建物を見て、行ってみたいなと思い尋ねました」というと、「有難うございます。ご説明しましょう」と気さくに話し始めた。「ここでは杜氏の人と協力し、酒造りをしています。私は主人と結婚し何不自由なく、暮らしていました。突然、二十年前に主人が亡くなり、途方にくれました。しかし発奮して、跡を継ぐことを決めました。必死で、酒造りに杜氏と力を合わせ励みました。江戸時代創業の酒蔵を残したい、その一心でした。では部屋を案内しましょう」と奥の方の和室の電気を点けた。
二十畳の部屋は、大正時代建築だという。アンティックな感じのたたずまいである。床の間の掛け軸に、大きな寅が正面を向き、今にも飛び懸かりそうな絵がある。前門の寅は、虎穴に入らずんば虎児を得ずの譬えで、ご先祖が酒蔵を決死の覚悟で創業し、掛け軸を飾った。当社の主力の銘柄も「虎の児」という名前をつけている。前年度、福岡主税局の金賞を貰った。「掛軸の寅が、私にエネルギーを与えてくれたと信じています」。
「この虎を、表紙にしたいとJAXAから話しがあり、計画書の表紙に載りました。探査機は、宇宙から土を持ち帰ったようです。私も九十歳になりましたが。寅のように情熱を注いで現在まで頑張っています」と語る。
部屋の窓ガラスから、対岸の公園が見える。私はあの公園からこの家を捜したのだった。女将さんは「川向こうの公園は、春になると桜の花が咲きほこり贅沢な眺めになります。その時期にまたおいでください」と言う。
コロナ禍のなか、経済は厳しい。有明海の潮流が怒涛の如く、嬉野川を上り、寅が睨んで、疫病を退散させ、ハヤブサが舞うように、その力にあやかって、嬉野に観光客が戻ってくることを願わずにはいられなかった。
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