第57話 奈良東大寺二月堂 エッセイ

文字数 3,848文字

緩やかな丘を登っていくと木々の向こうに、古くて気品のある建物がある。その建物は、人々から慕われ、何かを訴え続けるかのような佇まいである。仏教の教えを固く守り、庶民の心に安らぎを与え続けるのだろうこの建物は。
斜面の石階段が、私の前に立ちはだかる。上ってきた丘で使い果たしたエネルギーを、もうひとつ要求する。七月初旬とはいえ、三〇度近い大気、陽の中を歩き回り、大汗をかく。夏の旅行は、これがやっかいなのである。
同じような建物があり、四月堂と表示。右手には三月堂とある。その左に階段が三十段。この急な所を登るべきか、それとも、あきらめ引き返そうか一瞬、頭をよぎる。東大寺の大仏様は、下の方で拝んだことだし、その上に二月堂というのがあるらしい。見る価値のあるものなのか。また奈良へ来ることはあるだろうか。行きたい所は、たくさんある。一日で見終えるほどの田舎ではない。疲れた体に、好奇心が行動を促す。
若い女性が二人、軽やかに階段を上がっていく。上から降りてきた作業服の男性に、「二月堂はどの建物ですか」と尋ねた。建物補修工事の監督さんのようだ。にこやかに「左手の建物がそうです。傷んだ部分を修理しています。お堂の裏側は木々が茂り、そよ風が涼気を運んでます。山の水も引かれ手も洗え、一息つけます」疲れた体をいたわるような言葉がうれしい。奈良の人は心優しい、人当たりのいい人が多い気がする。
階段を登りきると左右に行けるコンクリートの道がある。右の三月堂の戸を開け、黒い僧服を着、経本を持ったお坊さんが、左の二月堂の方へ歩いていく。お堂の入り口はあるが、工事中で入れない。作業をしている年配の男性に尋ねた。「中へ入場できますか」「中へは入れませんが、建物の周りに回廊があり、そこからの眺めがいいですよ。入場は無料です」という。二月に祭りがあるので二月堂と名付けられたと説明をした。
崖に沿い建てられた本堂は、二階部分の周りが板張りの舞台のようになっている。京都清水寺に似ているが、それより小ぶりな建物である。長椅子が二脚置かれており、座って下界を眺めることができる。高台まで上がってきた人への気遣いだろう。眺望は、奈良市内随一の場所ではないかと思う。木陰の冷風が山から降りて、熱気に晒された身体を心地良く冷やしてくれる。背後の堂内で、先ほどの僧侶が、願い事の札を預かり、読経する朗々とした声が聞こえる。数人が、中で座し、頭を垂れている。舞台からは、近鉄奈良駅付近、その左に興福寺に猿沢の池など確認できる。
前の日、近鉄奈良駅で降り、道路向かいの東横ホテルインに泊まった。狭いが清潔ないい宿だった。その日は、京都石清水八幡宮へ参拝した。徒然草に出て来る逸話を読み、想像と現実を比べてみたくなった。本には「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝んだことがなかったので、心苦しく思っていた。あるとき思い立ちて、ただひとり徒歩で参詣した。極楽寺・高良などを拝みて、これだけと心得て帰ってきた。」というくだりである。現地を確認し「なるほどそうだったのか」。期待したほどの感動もなく、参拝を済ませてきた。頂上付近にある赤い回廊のある八幡宮を、年寄僧は見逃して、都に戻ったということだったのだ。
折角ここまで来たし、奈良市までは一時間の距離。古き奈良の都を、見て学ぶことも面白そうに思えた。近鉄奈良駅で下車、ホテルに荷物を置き、夕食の店をさがした。 
古い都で和食など食べてみたいと、駅構内を探し回った。見つからない。駅前アーケード街を散策。居酒屋ではあるが、「釜飯もあります」と、看板が美味しそうに訴える。奥の部屋では、宴会中の楽しそうな大声が聞える。カウンターには客はいない。「具だくさん釜飯」を頼んだ。出来るまで生ビールだ。付け出しも出た。
目の前に一升瓶の地元銘酒が並ぶ。「ヤタガラス(八咫烏)」という銘柄が目に留まった。家の近くの八幡西区の金山川に、八咫烏の法被をきた男達が、夏祭りの御輿を担いで川の中に入って、気勢を上げる。熊野神社の祭りを思い出した。カウンターの向こうで調理している女性に尋ねると「初代神武天皇が奈良の山中で道に迷い、八咫烏が都へ案内役を勤めたのです」と言い「地元酒蔵が造ったもので美味しいですよ」と勧める。「熱燗で5勺ほど貰えますか」と聞くと、「熱燗は一合からです。冷なら五勺でもいいのですが」と答える。頼むと、若い女店員がグラスと受け皿を持参。なみなみと皿に溢れるまでついでくれた。「いいね。サービスが」というと「ごゆっくりどうぞ」と笑顔がまたいい。釜飯も程よく良い塩梅で、気持ちよくホテルに帰り、熟睡できた。
六五年前、中学校の修学旅行で奈良見学をした覚えがある。日本の古代歴史を学習修めとするため、東大寺の大仏や法隆寺をバスで回ったはずである。私の記憶の箱の中は、霞がかかり、せんべいを手渡し食べる「鹿」の印象だけが残っている。大人になり、改めて奈良を見ることは、違った目線で眺め、考え感じることは多いはずである。
西暦八百年ころの奈良時代は、聖武天皇の統治。六十の国があり、役人がいる国府を置き、地方を統治。国分寺、国分尼寺、五重塔の建設を、各国に勅命した。苦難多き庶民救済のため、仏教を広げ救済したい。奈良東大寺が国分寺の元締めである。大仏様が鎮座され、全国の衆生を、いまなお見守られている。その当時創建と言われる東大寺二月堂も、仏教の教えを守り続け、建物の補修も施され、歴史の重みを感じるお堂になっている。旧暦の二月に行われる「奈良のお水取り」で有名である。期待に違わぬ素晴らしい場所である。
今朝、六時に目覚め、近くの興福寺まで散策することにした。大体の方角をホテルの人に聞いて、駅の南側の細い通りを歩いた。江戸時代の宿場の雰囲気がある。道の両側に、歴史を感じさせる商店が並んだ特有の街道である。目標が近そうなのだが、分からくなった。前方から、老婦人が散歩用のストックを突きながら歩いてきた。「すみません。興福寺はどっちの方向ですか?」「あ。行き過ぎています。後戻りして、あの先の路地を右に、坂を上っていくと猿沢の池に着きます」という。話を聞くと、毎朝散歩している。そこの神社に参り、次の神社に行く「孫が健康でありますようお願いしています」という。早朝で観光客も少ない時間、地元のお年寄りは、神社巡りをし、幸せと健康を祈るのを日課としているようだ。
興福寺には歴史を掻い潜ってきた建物が、境内に配置されている。階段をあがった先に、六角形の建物がある。堂の前に線香が何本も焚かれ、煙が風になびく。煙を手で掬い、自分の悪い体の部分にあてる。頭に、お腹に、肩にと煙は人を優しく包みこむ。
金堂も最近復元された。当時、煌びやかに高貴な方が出入りしていた様子を、髣髴とさせ、人々に感動を与える。五重の塔も長い時を経て、傷み劣化している様相である。今年から一〇年かけて、補修工事が行われる。当面、猿沢の池に映える美しい五重の塔は見えなくなる。東の山から上がるお日様の光が、清々しく奈良の街を照らしている。
 二月堂の舞台から奈良市街を眺めながら、今回の一人旅を思い返していた。気分もよくなったところで、次へ向かう気力がみなぎってきた。上がってきた道は遠回りな道で観光客も多かった。最短で奈良駅へ行く道はないだろうか。三月堂のお札を売り場で尋ねた。中年の男性だが、「二月堂の屋根の通路を下っていくと、バス道路に突き当たります。そこからは奈良駅行が何本も通ります」と紙切れに図を書いてくれた。やはり奈良の人は、旅人に親切であると感じた。東大寺の横の人通りも少ない直線道だった。
バスもすぐに来て、近鉄奈良駅に十分ほどで到着した。奈良駅から上りで三つ目の駅、西大寺で下車。バスに乗り換え、かつて天皇のいた都、平城京のバス停で降りた。他に客は降りなかった。道路の向かいは、広大な緑の平地が見える。
ぽつんと二階建ての古い形式の大きな建物がある。ガードマンがいて、「天皇の玉座のレプリカがあります。歴史記念館は、森の向こう十分歩いたところにあります」という。夏日の照る中、草原のような感じであり建物は何も見えない。奈良市内は住宅が密集していたのに、この場所には家が見えない。奈良時代の前の時代、平城京があったのだろう。兵士や使用人、役所など多くの建物があったのではないだろうか。現在は、国有地なのだろうか。水田にでもすれば多くの稲穂が育ち、庶民の食に貢献することも出来たろうに、もったいない広大な平地だと思った。
遺跡は皆無で、記念館に昔日の栄華を記してある。私は、広い草原をみて、過去の栄華を想像することができなかった。十数キロ離れた奈良の都は多くの面影が残る。平城京は消滅し地面だけが残る。一度見ておけば十分な気がした。
歩いて西大寺駅に戻り、大阪方面の列車に乗った。疲れ切って、座席で眠り込んでしまった。一時間半も過ぎたころ、大阪環状線の鶴橋駅に到着した。
修学旅行の復習ができたようで、奈良の記憶の箱がクリアーに保管された思いがする。
このエッセイを読んで師匠の後藤みな子先生は「面白くもなんとんもない。これぐらいだったら私でも書ける」と痛烈に批評する。なにか足りないどこが足りないのだろうか。「それは自分で考えなさい」と師匠は言う。クソー・・・と思うが、なにか本質をつかんだことを書いていないから怒られるのだろう。悩める子羊。

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