第35話 辛夷(コブシ)の花 堀 辰雄

文字数 674文字

窓外に猛烈に雪の降る木曽の谷谷を見ながら、汽車の中で葉書を書いていた。
車内には僕たちの外は、商人風の夫婦連れと冬外套を着た男客がいるきり。
急に雪の勢いが衰えだした。今度の旅は気候の具合が奇妙だ。東京出る時は強く吹き降り、昼過ぎは小ぶりになり、信濃に差し掛かると雨も上がり、生き生きと蘇った景色になった
その晩、木曽の宿に泊まり、朝女中が「この頃は癖になってしまって困ります」と気の毒そうにいう。そんな中、宿を立った。僕たちの乗った汽車から木曽の谷のむこうは、春めいて見えた。窓に顔をつけるように外を見た。谷の上の方は、舞い上がる雪のほかはなにも見えない。隣席の夫婦は小声で話す。奥の席の外套男は、時々床を足で踏み鳴らす。妻が僕の方を向き、ちょと顔をしかめた。
隣の夫婦の話声を耳に挟んだ。「山に咲いている白い花はコブシよ」僕はそれを聞くと、振り返り山を見た。きょろきょろする僕を見て、隣の夫婦は何事かと僕を見つめた。
僕は妻に「本ばかり読んでないで山の景色をみたら」と言った。妻の注意を外に向けさせ、自分と一緒に白いコブシの花を見つけ、旅のあわれを味わってみたかった。妻は「読書のあいま、どんな景色でどんな花が咲いているかぐらい、知っていてよ」という。「ほらあそこに一本」「どこに」僕には良く見えなかった。「またすぐに見つけてあげるわ」と妻は言う。が、なかなか見当たらなかった。
雪国に真っ先に咲くコブシの花が、どこかの山の端に立っている姿を、ただ心の内に浮かべて見ていた。真っ白い花から、雪が解けながら、花の雫のようにぽたぽたと落ちているに違いなかった。
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