第41話 宿場の飯盛り屋 エッセイ

文字数 1,550文字

 江戸時代、街道には宿場が五百メートルに渡り、色々な商売を展開していた。参勤交代のために、殿様が泊まる本陣が、設置される。家来の泊まる副本陣、その他が泊まる旅籠がある。人馬継ぎ所も幕府公認で、人や運搬の馬が泊まる。基本的にはそれだけである。
 しかし、人が生きていくために必要な生活用品・食料品・飯屋・大工・鍛冶などのが店屋が立ち並ぶ。これらは、宿場に必要であると幕府が認めたものでなければならなかった。どの宿場にも、同じようなタイプの商いの店が設置された。商人が生きていけ、活躍できる場所である。身分的には、武士が一番で商人は最下位の位置づけである。米が財政基盤である江戸時代、人は米だけを食べ生きていた。米を作る農民は武士の次に偉いという格付けである。商人は利ザヤで生きるので最低の身分という格付けである。
 幕府の政策では、遊郭は吉原遊郭や特定した場所の遊郭以外は、禁止としていた。四里、いまでいう十六キロメートルごとにある宿場では、遊郭を置くことは禁止されていた。男と女が交わることは、結婚では許されるが、遊びで交わることは不道徳の考えがあったのだろう。
 旅籠は宿泊のためであり、遊女を置くことは許されない。飯盛り屋は、食事するため認可されていた。この食堂のような所に、飯盛り女を二人まで置くことは許されていた。
 宿場では、男と女がそれぞれの役割を持って働いて居る。当時の平均年齢は、今の長寿と異なり三十才位が平均寿命だったらしい。生活は貧困で食事は一日二食、麦飯に味噌汁と沢庵を食べていた。勿論、良い生活をする者もいた。
 士農工商という制度は、人の移動や職業移動を禁じられ、違反者は厳しく処刑された。農民は田で米を作り、幕府へ半分、自分たち家族の食い分半分で毎年を過ごした。出稼ぎなどできない。お天道様が東から西へ移動する間働き、暗い夜は粗末な家で藁のような夜具で寝ていた。
専制国家では、どこかの都会に出て働くなど禁止、田舎で一生を田に係わる仕事をし、生きて行くことが義務付けられていた。盆と正月だけが休みであり、趣味とか楽しみとかは、無に等しかった。子孫を残す為、結婚は認められていた。長男は田と家を継ぎ、嫁を貰い生きていける。次男・三男は、他に働く所もなく、生涯、下働きとして生き、そして死んでいく。長女は別の農家に嫁ぎ、子を産み子孫を残す。次女・三女は下働きで終るか、奉公へでるかである。
嫁も、家事仕事に追われ、田の仕事での必要な仕事もあり一日中働き続ける。夜寝る時が、休息の時。結婚していれば夫と妻は性交渉をする。男にとり快楽であるが、女性は妊娠・出産・育児と家事に追い回される。十五・六で結婚し、子供を産み、三十位で亡くなる。この繰り返しが、当時の人生だったのだろう。現代の生き方と格段の違いがある。
縛られた人生を、人間だから悩みも多く持つ。三十年間なんてあっという間の人生だったろう。自分の住んでいる地域しか知らない人生。周りを見ても、同じ境遇の人たちである。
縛られた人生を全ての人が行っている。自分をこれが当り前だと納得させる以外に、考えられることはない。上を見れば、きりがない。下を見れば自分より、更に下の境遇の人もたくさんいる。栄養失調で子供も早く死ぬ。七歳まで生きていれば神様のお陰だと喜ぶ。苦しい人生のなか、心を救ってくれるのが、お経を唱えるだけで、極楽浄土へ行けるという宗教がある。誰もが現世の苦しみを味わい、来世の花園を願う。実際は、何もない天国だろうが、せめて心の中はそれを信じたい。
※乞食坊主は、没落し破れ小屋に住んでいる臨終の姫君へ言葉を掛けた「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らず、阿弥陀仏の御名をおき称えなされ」 :六の宮の姫君より
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