第63話 何でもみてやろう 小田実

文字数 3,055文字

〇具体例:私はアメリカを見たくなった。高度に発達した資本主義国、われわれ文明が到達したものが、ガタピシしているのか、どれぐらい確固たるものか、確かめて見たかった。アメリカで見たく憧れていたのは、ニューヨーク摩天楼・ミシシッピ河・テキサスの原野の三つだった。大きなものが好き。バカでかいものが好き。
※小田氏洞察:人間についても、例えば、ばかでかい理性・情熱・洞察力・想像力・空想力・ばかでかい好奇心・もの好き・陽気さ・のんきさ・あるいは途方もない怒り・悲しみ・笑い・あるいは野放図な食欲・咀嚼力・消化力ーーそういったものの根底には、ばかでかい人間エネルギーが存在し爆発しつづけているのであろう。
感想:見えない要素を推測し。本質を見抜く。は洞察力である。高度に発達した資本主義国とは何?国に限定か。アメリカのこと。発達とは何をさす。高度とは。政治、経済、文化。資本主義に対して共産主義。人生観、生活状況、個人の収支状況。民衆主義、中央集権体制。一人の人間は組織の中の一粒の米みたいなものだ。理性とは筋道の通ったことを性質として持つこと。理性が無いとは感情的なこと。情熱とは物事に熱い心で対すること。洞察力は私になかった。身に付けたい。想像は出来る。空想は意外と難しい。無いことを有るように考える。好奇心は誰にもある。物好き・陽気・のんき、性格による。大きな怒り、悲しみ、笑い、深刻な体験は人それぞれ。食欲、咀嚼力、消化力。その根底、考えたことがない。人間エネルギー。単細胞な私の頭では、考えがまとまらない。なんでも見てやろう。そこがもう違う。私は好きなものだけを見ようとする。見れども見えず。聴けども聞えず。小田氏は素晴らしい。
〇具体例:日露戦争後、「日本」の名は小国ギリシアにとって希望の象徴であったという。日本のようにやらなければいかん。進歩的な政党を作ったそれが「日本党」だという。
※小田氏洞察:いつも大国にいじめぬかれている小国には、小国なりの立場があって、それに従うと、この前の戦争に対する考え方だって随分と違う。私は小国の人と話すとき、いつもそう思った。
感想:日本人としての立場から他国を見る。比較し相手国の目に見えない要素を引き出し、その本質をつかむ。その才能は素晴らしい。危険な貧困な場所に、自ら身を投げ出し、危険や貧困の原因を探る。勇気のあるひとであり、またハイクラスの人や頭脳を明晰な人とも、激論を交わす。自分の論理と言うのを身につけ、主張する。それが確信をついている。
〇具体例:ギリシャの農村の人々はあけすけに何でもものを尋ねる。好奇心にみちあふれた瞳と質問の十字砲火を浴びる。私が何か言う度に笑いこける。子供たちの明るい笑顔が鳴り響く。
※小田氏洞察:子供たちの記憶には、降ってわいたように現れた、はるか遠い、全くのおとぎ話めいた国からの旅人の姿が永久に焼き付いているのであろう。
〇具体例:ギリシャ正教の若い神父、可愛い奥さんと赤ちゃんと三人ぐらし、収入はほとんどゼロだが、その代わり、教区の善男全女の喜捨があった。彼はギリシャ正教のみが唯一の頼るべき宗教であると私に説き、別れ際にキリストの像を描いたお札をくれた。
※小田氏洞察:彼は私に、日本に着いたら東京の絵葉書を送ってくれるよう頼んだ。一度でいいから外国の事物を見たいのだ、と隠遁者にふさわしからぬ、えらく現世的なことを言った。

素晴らしい洞察力だと思う。若いときに貧乏旅行で、何でも見てやろうと、極貧の世界も体験。若くなければ病気で死んでいたのでは。400ページもある単行本。1979年に初版で2022年に第49刷発行。如何に人気があることか。体験したことを洞察力鋭く、文明社会を批評している。たしかに最後まで面白く読めた。ただインドについては、洞察力が足りないのではないかと思った。それは、
小田氏:堀田善衛氏の「インドで考えたこと」という本を、アホらしい本だと思った、同時に優れた本だと思う、と小田氏は書いている。たとえばヒコーキの下に見えるどの河も、ガンジス河というインドの「広さ」というのに無邪気にぶったまげ、ガンジス川に巣くう大魚に眼を見張ったりする。そんなことにいちいち驚いていてはお話にもなにもならんじゃないか。シッカリシロヨ、オッサン、と、私は堀田氏の肩を叩きたくなった。と小田氏は記述している。
 私も、堀田善衛氏の「インドで考えたこと」を先日読んだ。岩波新書など堅くて読んだことないが、小田実の「何でも見てやろう」の中にあったので、読んで見た。私も観光旅行でインド北部へ行った。野良牛が片道4車線のなかゆったりと一頭歩いている。みんな避けて走る。車はリヤカーまで走り、ツクツクが走り5列で走ったり、追い越したり、滅茶苦茶である。一般道で信号待ちの車に家なき子のストリートチルドレンがコンコンと窓を叩き、お金頂戴という。道端で女が布団を抱え座っている。野宿の生活をしているのだろう。観光の一団で歩いている女たちは裸足。カースト制度もあり、南部インドは極貧であるという。菜の花畑が延々と繋がっていた。私は2月頃行ったので、酷暑ではなかった。貧乏に耐えかねて、農薬で死ぬ農人も多いとガイドは言う。大変な貧乏国であるというのが単純な印象だった。
 堀田善衛氏は「インドを考える」という本の中で、インドとは、と掘り下げ、洞察し、思考している。「無慈悲な自然から思想が生まれた」の中で述べている。
 「輪廻の車のように燃えている太陽から直に、燃え立ったままの、真っ白な光線が太い束をなして大地に襲いかかってくる。その怖ろしい、そして鋭い光線が、永遠ほどの時間をかけてこの大高原の紫色乃至茶褐色の岩を突き崩し、突起物を撲り付けている。畑の土層は極めて薄く、茶褐色、岩が遠慮会釈なく飛び出している。残酷な土地である。それでも人間はこの薄い土層を耕して生きて行かなければならないのだ。
 自然が、どんなに苛酷でありうるか。それはもう、自然がほとんど人間となれあっている日本島では想像出来ない。この自然に、人間が自らの持つもので対抗するとなれば、それは宗教を含めた意味での思想、それ以外にあるはずがない。
 太陽は敵だ。このあたりではものを育てる母なる太陽ではなくて、一切の生き物を灼き枯らす凶悪な敵ではないか、と思われる。青一点張りの、うとましくなるほどに青い穹窿のどまんなかで、太陽は千本もの手を振り回して、勝手放題、人間の都合、総じて生きものの方の都合など考えてもくれず、たったひとりで踊り狂っている。千手観音というのは、これから発想されたんだろう。
 けれども、対照の厳しさは此処にもある。この強烈な昼の時とひきかえに、夜は、冷え冷えとしてきて、白昼の空の青が暗い暗い夜の穹窿の奥に、深い海のような青さで、青々と、いつまでも残っていて、そこに純粋な色の月がのぼって来ると、いかなる不信仰の者も何かを拝したくなってくる。昼間は打ちのめされて、夜は同じ天空に救われて、これが永遠に持続するのである」と書いている。
 小田実氏とは違った素晴らしい表現であると感じた。インド南部の貧困状況を見ても、眼に見えない要素を推測し、本質を捉えているように感じた。残酷な土地でも動物が生きているように、人間も生きていかねばならない。短命で苦難の多い生活だが、そこから抜け出すことが出来ない時、耐え忍ぶという考えはなく、自然の神のなすがままに息をしていくのだろう。

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