第74話 歩くこと健康の兼ね合い エッセイ

文字数 3,747文字

人は、年齢を重ねると健康でありたいと思う。しんみりと思う。体のあちこちが痛い。病気になった。目がかすんできた。杖なしでは歩けなくなった。衰えてきた自分の体のことが、ものすごく気になる。壮年の頃までは、できたことが、まるで出来なくなる。
働いていた会社も、定年で仕事の出来ない年寄りはお払い箱となる。しかし稼がなくてもよい身分になった。長い間、厚生年金保険を払い会社も半分は援助してくれる。最低限の人間生活は保障されている。苦役から解放され、気ままな生活ができる。毎日が日曜日の優雅な生活が待っていると夢見る。
 若い日々、健康って当然備わって当たり前のことだと思っていた。若々しい皮膚、しなやかな動作、バリバリ働き、走りまわる。重いものを持ち歩く。長時間の車運転だって出来た。同じ世代の人ばかりが目に付く、自分を中心に世界は動いていると錯覚する。我々は年をとらないんじゃないかと内心思ったりした。自分が老人になるなど、よれよれになるなど、考えられなかった。だから私は、健康のためになるような事はほとんどやらなかった。若い時はそれが当たり前かもしれない。
いったいいつごろから、健康であることを気にするようになったのか。自分でも気づかないくらい、あまりにも静かにひそやかに、身体状況は変わっていた。時の流れは、皆平等であり年月が過ぎれば肉体は衰えていく。振り返れば怒濤のごとく流れる河のように過ぎ去った人生だった。
 定年後、妻と鹿児島旅行をした。指宿温泉の砂湯につかり、桜島を観光楽しんだ。その後、市内の有名な観光地の城山に登ることにした。大勢の観光客が、百メートルほどの小山に登り鹿児島湾の桜島の絶景を眺める。急な坂を半分ほど登った所で、私は急に体の中に異変を感じた。今まで経験しことのない胸の痛みだった。苦しくて立ち止まり、傍にあったベンチに座りこんだ。妻は心配顔で「大丈夫?」と問う、「ちょっとだけ休みたい」と返事した。内心は、「なんだ!この胸の痛みは、死ぬんじゃないだろうか」と、驚きおののく私。五分ほど休むと、痛みが治まった。「なんだ、大丈夫じゃないか」、すぐに伸び縮みする自分の肝が悲しくなる。坂を登るのは、やめてホテルへ戻った。その後は、痛みも止まり、自宅へ帰って行くことが出来た。旅の後は、何のノルマもない日々の生活、静かでゆっくり時間が流れていった。
城山の胸の痛みが気になりだし、家族の病歴を思い返した。母親は、心臓病を気にして入院し、カテーテルの検査を受けては安心していた。八十三歳の時突然、畑で鍬を振り下ろした途端、倒れた。くも膜下出血という脳の血管破裂で急死した。何故そんな早く、人生を終えてしまったのか。私は、母の冷たくなった頬をなでながら、大泣きし涙を流した。もっと、一緒に旅行するとか親孝行したかったのに。前日会ったときは、すこぶる健康的で元気な人だった。来年植える野菜を計画していたのに、人の命はわからない。
 母が亡くなった後、父は九十三歳まで車も運転し独居老人として、ヘルパーの手を借りながら生活した。認知にもならず、きちんとし清潔な暮らしをしていた。本人希望で老人ホームへ入った。三年後、緊急搬送され、九十六歳で亡くなった。
私は、六十歳定年で会社を辞め帰郷。丘の眺めのいい団地へ家を建てた。終の棲家だ。家の周りを散歩するのが楽しみで、坂道を登って、団地を一回りし、下り戻って来る。
両親とも亡くなり、相続した実家は改装し、事務的な自営業をし、趣味の場として活用している。毎日、三キロの道を車で往復する。テレビで、高齢者が車を急発進してコンビニに突っ込む。人身事故多発と、頻繁にニュースで報じる。「高齢者は免許返上すべき」と世の人は喧しく言う。「高齢者が全て悪いのか」パワハラだ。免許なしでは、日々の食事に困る。田舎では生活必需品の買い出しに車は不可欠。また行きたい所へ好きな時間に、車だと行ける。正常であれば車は運転できる。身体障碍者も車を加工すれば運転できる。高齢だから駄目はおかしい。
私の心は、「老人ではない」と思っている。後期高齢者の被保険者証を市役所で受け取る。老人の認定など、行政にそんな権限があるのかと、大いに不服である。まだ私は若いのだと心が叫ぶ。だが周りはそれを認めない。黄泉の国へ早く行けとすすめるのか。
毎日の散歩は坂道である。急に胸が苦しくなった。暫く立ち止まると、嘘のように元通りになる。坂を下るときは、楽に走れる気分になる。「軽い心筋梗塞なのだろう」と自分を納得させる。病院は年一回の検診だけ受けていた。血圧の薬は飲んでいる。検診医に少し状況を話すと、「老齢になると、誰もが病気にはなる。血流が悪いかもしれない。血の流れをよくする薬を出しておきましょう」という。時々、気になり、悩むけど医者に行く勇気はない。夜、苦しくなると、ゲップを出す。痛みがなくなる。「胃が膨らんで、心臓を圧迫しているのだ。ゲップで空気が抜け、心臓を圧迫しなくなったのだ」と、自己判断。 
 本屋に行くと、「歩いて治そう心臓病」のタイトルで医師が書いた本が目についた。「心臓病は、悩んで薬だけ飲んでいても治りません。思い切って、外へ出て歩きましょう。病気のことは考えず、青空を見て、大気に包まれ、他所の家の花を眺め、綺麗だなとおもいながら、毎日散歩すると良い」とあった。
この程度なら、即実行できる。万歩計を買い、一日一万歩をノルマにした。一年ほど続けたが、毎日一万歩は、きついし時間が掛り、なかなか達成できない。目標を七千歩に落とした。五年間続いた。歩くようになって、胸の痛む回数は少なくなった。しかし毎日七千歩は、なかなか続かない。目標を六千歩に下げた。朝に二千歩、午後二千歩、夕方二千歩。このレベルを続けて五年くらいになる。いつのことか分からないが、心臓近くの血管に小さな詰まりがあったのか、そぎ落とされ流れ去ったと思う。それからは、胸の痛みも年一回くらいに収まっている。悩みから解き放たれた。健康は素晴らしい。あの本との出会いがあり、毎日六千歩の御陰だと信じている。やはり歩き続け、体も気分も大気に抱かれることが、体の血液循環を促進し、結果として良いことになるのだと私は思う。
体調も良くなってくると、健康への意識がおろそかになって来た。万歩計をズボンと一緒に洗濯機に入れ壊したり、裏の畑で落とし土に埋まったり、何回も買い換えた。歩数も一日三千歩くらいに落ちていた。腹に脂肪もつきだして体重も増えてきた。
気が緩んだ途端に、帯状疱疹が襲ってきた。原因が分からず、初期治療の対応が遅れた。腹巻のように、腹半分の皮膚がただれ、ぐじゃぐじゃになった。痛くて痒くて薬も注射も効き目が遅い。「腹全部に疱疹ができると死ぬ」と脅かされた。三ヵ月後、何とか回復した。 
その後がひどいことになった。後遺症のように、神経痛が全身の関節部分を傷めつける。すべての関節が痛い。首、肩、肘、手首、腰、膝を動かすたび激痛がはしる。歩くのもぎこちない。運転もできない。杖がないと転ぶ、そろりそろりと歩く。指の力も衰え、缶コーヒーの蓋も開けられない。七十五歳だった。このまま体が固まり、老人となっていくのか、身体障碍者になるかもしれないと思った。朝布団から起き上がるのに、もがき苦しみ三十分かかった。長時間座るのも腰や尻が痛くて耐えられず車の運転もあきらめた。 
整形外科を三軒回ったが、「首の頸椎が潰れ、神経が圧迫され痛みが全身にいくのでしょう。手術しか治す方法はありません」と医者は診断する。「首の骨の手術など嫌だ。地獄は嫌だ。他に直す方法はないのか」と悩んだ。ペインクリニックで、痛み止めの注射を、首に打つと、痛みがなくなる。「治った。まともに歩けるようになった」と喜んだ。二日後に、痛みがぶり返した。麻酔も切れ痛みが襲ってくる。治療と言うより、対処療法である。
他の方法はないのか、必死でネットや本で探しまくる。藁をもすがる気持ちで、麻酔科医に隣接しているフィットネス・クラブへ通った。毎週二回トレーナーの福井さんが施術してくれた。アメリカ式整体施術の免許を持っている。全身の筋肉を伸ばしたり縮めたり、一年間続けていくうちに、部分的に関節の痛みが消えていった。どういうわけで痛みが少なくなっていったのか分からない。福井さんは命の恩人だ。二年位かかり痛みは治まった。
福井さんに、体操の仕方を教えて貰った。腕をぐるぐる回す。前、後に腕を捩じり動かす胸を張りながら三十回。スカット二十回。片足立ち一分間。腹筋、腕立て伏せ開脚と、朝、二十分行なうのを習慣化している。歩くことも毎日六千歩を復活させた。自然の大気に抱かれ、散歩することは大切な事である。健康が一番。現在の体調はすこぶる良い。
八十歳で私は新車を買った。トヨタのクオである。急発進してもブレーキが掛る。道路の白線をこえると、警告音がしハンドルは白線内に入るように動く。安全策が多種施され、老人でも安心して運転できる。私は、このままの体を維持できるならば、九十歳まで運転する心算である。年老いても歩ける健康があれば、人として何とか生きていけるだろう。
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