第26話 無償のことをなにか 神社物語

文字数 3,574文字

冬が過ぎ去るころ、家の窓から遠くに、薄く色付き始めた木々の梢が見える。日々増すごとに、色が濃くなり、厳粛な太賀神社は、薄い桜に覆われる。
中間市太賀近辺は、ダイエーや映画館があり、筑豊電鉄・銀行・飲食店もあり、便利がよく、暮らしやすい所である。昔は、大きな溜め池があり、周囲の丘は木々が生え、近郷の人たちは竈や風呂を燃す、焚き木を拾いに行っていた。戦後の高度経済成長により、五十年前に丘の木々は伐採され宅地造成された。北九州の大会社の社員が、こぞって和風の家を建て、住み始めた。
それから半世紀が過ぎ、若かった住民も、ほとんどが八十歳過ぎの年寄りになってしまった。世の中も世代交代となり、人や物や考え方も、大きく変わった。心豊かな時代から物質優先の時代に変わり、便利で有り難い面も多いが、古い物が捨て去られていく。残して貰いたい物まで消えていくのが悲しい。
江戸時代に建てられていた太賀神社は、山の中にひっそり存在していた。今は神主も居ない。氏子は太賀団地から離れた所に住み、境内の清掃や管理が行き届かない。大きな石鳥居と石の社と狛犬だけは、朽ちることなく存続する。
半世紀前に、家を建てた徳永さんは、目の前の木々に囲まれた神社が気に入っていた。定年後、庭師に弟子入りし、木の剪定を、一時の仕事とした。自宅の庭の大木によじ登り、毎年剪定をされ、見事な和風の庭を仕立てている。神社の周りには、桜や銀杏や楠ノ木が植えられている。徳永さんは、落ち葉掃除や草抜きの奉仕を長年されていた。八十歳を過ぎて、心臓病を患われ、生きるか死ぬかの大手術となった。何とか一命をとりとめ、自宅に戻ることが出来た。「神社の神様が、私の命を助けてくださった」と語られていた。
私も十五年前、定年退職し、故郷の実家に近い太賀団地に家を建て、妻と住んでいる。個性的な家々を眺め、散歩するのが、習慣になっている。時折、神社に参拝し、徳永さんともお話するようになった。大病の後は、掃除が出来なくなり、境内は、雑草と落ち葉が積もっている。氏子はほとんど見かけないが、登録された神主が年始に来て、石鳥居の注連縄を張り、社前に祭壇を設置し、祭りを行う。
落葉の神社を見て、何故か私は、「竹箒を買って、掃いてみよう」という気になった。週に一度だけ、鳥居から石の祠までの小道を、掃き清めることにした。[お年寄りがお参りする時、落ち葉や草で、足を取られないように]と、思った。
或る時、祠の石段を上がった賽銭箱の前で、太った女が横に寝ていた。箱の投入口に右手を突っ込み、お金を盗もうという魂胆だ。女は、私に気付いたのか起き上がり「何もしてないよ」と座り直し、合掌し拝む真似をした。生活に困ってやむにやまれないならば、使わしてもらえばいい。神様の心は宇宙のように広い。その後、彼女は警察に捕まったと徳永さんに聞いた。神様は見ておられたのだ。
掃除するうちに、異様な感じに気づいた。奥にある御影石の稲荷祠の前に、赤い丸太が六本、一メートルの高さで立っている。多分、赤鳥居の笠木部分が、腐り崩れ落ちた残骸だと想った。腐った額束と赤棒が放ったらかしてある。誰も気づかない訳はない。人がやるだろうと、永年月に晒されている。[この地に住んだご縁で、私も鳥居を、何とかしてみたい]と信心とは別に思った。しかし氏子や、代理神官もいる。[勝手に動いていいのだろうか。非難されれば、やめればいい]と、一人勝手に判断し、動くことにした。
中間商工会議所が新年会を市民ホールで開催、百人以上の商工業者が集まる。私も自営の社会保険労務士の端くれとして参加する。名刺交換していると太賀二区の糸井区長に会った。地域活動に熱心で、盆踊りや文化祭、テントを張って食事会など楽しそうに実施されているのを、拝見する。私たちの一区では同じ行事はあるが参加が少ない。担当区長の意欲、仁徳により、全く違う。二区の区長は、私の話を聞いてくれた。「市役所との会合がありますので、その時、鳥居の再建を話してみましょう」と約束してくれた。
翌年の新年会で区長に会い、話を聞いた。「宗教に行政は関与できないので、金は出せないようです。又、別の方面で当たってみます」と、笑顔で答えてくれた。政治と宗教は分離すべしという、戦後の憲法改正で、役人も型どおりの対応をしたのだろう。自分の損得を考えず、嫌な顔ひとつせず、他人の話を聴いてくれる区長は、人から信頼されていると思う。
次年度の新年会に再度、お会いし、話を聴くと「神社総代の岡部さんに話をしました。『神社に鳥居の腐った棒が地面から突き出ています。子供が遊んでいて大怪我する危険もあります。なんとかして下さい』と持ち掛けました」という。中々、交渉の仕方も上手な方のようだ。結局、先祖の思いもある岡部さんが、再建することになった。区長の糸井さんのお宅へ、菓子折を持って、御礼に行った。 
半年後、赤鳥居が三基、稲荷の前に新しく建っていた。道の掃き掃除は三年ほど続けた。暫らく仕事が忙しく、掃除の手抜きした時期があった。久し振りに行ってみると、鳥居から社への参道は、掃き浄められ、全域の雑草まで抜いてある。新しいボラアンティアは、近くに住む高齢の叔母さんで、「私は氏子ではないけれど、この地に住み、神様に守ってもらっているような気がします。境内を掃除することにしました」と謝恩の心持を話された。通りがかりの人が、神社に向かって拝礼し、手を合わせるのを見かける。神社ってなんだろう。
車で三十分の所に、ユネスコの世界文化遺産に登録された宗像大社がある。年始には、大勢の参拝客で、車渋滞は二時間待ちとなる。古事記に「天照大神が三女神に神勅をくだし、田心姫は沖ノ島の沖津宮、たぎつ姫は大島の中津宮、市杵島姫は宗像田島の辺津宮で地域の子孫を守るように」という記述がある。これが地域の人々が信じる、鎮守の杜の始まりではないだろうか。
多良海道の多良宿に行った時のこと、地元の人らしい日焼けした親父さんがベンチに座り、有明海を眺めていた。話を聞くと「今から、一キロ先まで干潟になる。あの黒い米粒のようなのが沖ノ島の灯台。満潮で島は海に沈む」と言う。「陸にあるこの鳥居は今年の二月に建てられた。昔は三十年ごとに建て替えられたが、今は十年しかもたない。下の柱が腐ってしまう」。伝説の鳥居と書いてある看板前で、「三百年前、悪代官に手を焼いた住民が示し合わせて沖ノ島に誘い出し、酔った代官を島に置き去りにした。満ちてくる潮で、驚いた代官は竜神様に助けを求めた。代官は大きな魚の背中に乗り帰還した。感謝した代官は、魚の名前を取って大魚神社として造営し、海中に二百に渡り鳥居をたてた。今でも鳥居は、取り換えられている」と赤鳥居にまつわる物語を嬉しそうに話した。
太賀神社の新鳥居の横に、壊れた額束が三つ、立てかけてある。[これは私が、勝手に、修復しろということか]と、家に持ち帰った。腐った部分削り、分厚い材木で型取りをし、ボンドで付着させた。文字も、黒ペンキで書いた。「もっと上手に書けば」と人は言うが稲荷様は、怒らないだろう。一か月後、車で脚立を運び、赤い額束を鳥居面に打ち付けた。一時間後、車に戻ると、パトカーが駐車違反切符を貼っていやがった。「神社の鳥居を修理していました」と警察に話しても、「ご苦労様です。宗教と警察は関係ありません」という、罰金を払った。 
神社の鳥居は五年後、一本の柱が腐り始めた。柱の一部を指で押すと、ボコっと沈むのだ。腐った部分をノミで削り、補充木の製作。本職でもないし、上手く形は作れない。空いた隙間は木工ボンドで埋め、赤ペンキを塗った。
通りの坂道に、大工が建てているミニ家屋がある。屋根瓦と壁や玄関はあるが、奥行き半間の家である。「自分の腕前を見ろと」誇示している。この男、高齢なのに厄介者だ。酒飲んでは、通行人に訳も分からない事を大声で怒る。私は脚立の上で、鳥居の腐れ部分の充てん作業をしていた。後ろに人の気配を感じた。サングラスを掛けた作業着の親父が立っていた。意外と優しい声で「稲荷の修理をしているのだな」と訊く。「そうです」と答えた。「人のためにしているのだな。良いことだよ」と言って立ち去った。親父の言葉が気になった。大工の腕前からすれば、下手くそな私の修理作業だ。奉仕する心を褒めたのだろうか。
そういえば、親父の顔を、随分長く顔を見かけない病気でも患ったのだろうか。神社前の徳永さんも、最近の区内の回覧板で亡くなったと訃報が載っていた。神社前の家は、雨戸が閉まり、人の気配がない。盆に提灯が掛かっていたら、御参りに行こう。赤い鳥居は、人が生き、死に、時が過ぎていく地元を、じっと見つめ続けている。
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