第4話 息子に エッセイ
文字数 5,006文字
「馬鹿ヤロー。この親不孝者!」という文章を書いて、息子へメールを送った。埼玉県大宮に一人で住んで、仕事をしながら生きている四十四歳になる息子に対し、私は、暴言のメールを送ってしまった。
送ってしまってから後悔が渦のように心の底で回り続けて、抜け出せない。あいつが、メールの文を読んだのかどうかは分からない。ナシのツブテなのである。携帯へ電話をかけても、メールを送っても返事がない。息子は遠く離れた所に住み、仕事をし、日常生活を送り、自分の好きな趣味を持ち、人生を過ごしている。
「親に何の迷惑もかけることなく、自主独立している。そんな息子に一体なんの問題があるの」と妻は言う。
[彼女は、観音様の生まれ変わりか。悟りきったような事を言うじゃないか]面と向かっては言えないが内心はささやく。逆に、息子は[この阿保!クソ爺]と反抗したいと思っているだろう。そう応じてくれれば、こちらも腹を立て、感情的に怒鳴り返すだろうに。何も言わないということが、一番難しい。相手の頭の中は、何を考えているのか推測がつかない。私の無理強いに本心は怒っているが、言葉に表現して反発しない。これも、あいつの優しさかもしれない。
息子の仕事はコンピューターのシステムエンジニア―である。大学は法学部だったが、難しそうな電子言語を使ってプログラムを組み立てるという。私には内容の分からない仕事である。病院の会計処理を自動的に計算し、患者の支払いを迅速、スムーズに処理するシステムを構築し、病院のコンピューターに導入する仕事らしい。同じ会社へ二十年年近く勤めている。大事な立派な仕事だと思う。世間では長時間労働で、離職したり、ノイローゼになったりする者もいる。厳しい職種と悪評判である。よく続いているな。その中には波乱万丈なこともあったのではないだろうか。仕事のことは、話したこともない。所詮、話しても、親父には理解できないだろうという態度がある。こちらも理解しようともしない。人の脳みその中身はそれぞれの考えがあり、自身で葛藤しているのだろう。
息子は真面目で優しい。問題を起こしたことは、一度もない。バイクや自転車や山にも登るらしい。服装にも気を遣っているようだ。毎年、年末年始には我々の家にやってきて、ご馳走を食べ、大酒を食らう。一月三日には東京の方に帰っていく。何の問題もない良い男なのである。
だが何故かこの年になっても、結婚しないのである。常識では三十歳くらいで結婚し、所帯を持ち子どもを作り、夫婦共同で子育てをする。学校を出て働き出せば、一人前の大人であり、あとは親が干渉することはなく、自主性に任せる。困難なことがあり相談されれば、親はいつでも、全力で応援する。子どもを育て、次の世代へ引き継ぐ。人類が永遠に存在し続ける基本であると思う。
それは、親父の古臭い世間体をおもねった考えではないのかと、奴の頭の中にはあるかもしれない。それを言っちゃおしまいよ。おれは黙秘権を使い、自分のやりたいことをやるのだ。離れて住み、便りが無いのは、元気な印を決め込んでいる、のかもしれない。
同性愛も公認される世の中だが、全員、同じ行為をすれば人類は滅ぶ。少数意見を大事にすることは、大切だと思う。しかし、本質的なものは、ゆるがせないものがあるのではないだろうか。息子がその傾向があるとは、思えない。彼は帰省し家に泊まると、私の尻を撫でる癖がある。「やめろ。早く結婚して嫁の尻でも触れ」と怒鳴るが、「スキンシップ」と言いニタッと笑う。「うっとしいな」と本気で怒るとやめる。女の仕草をしないし、大酒を飲むし、女装趣味でもない。
子供の頃から、息子を怒ったことがない。思春期にも、私が親父に反抗したような、抵抗をしなかった。3歳年上の姉がいるが、娘には怒ったことがあった。高校生の頃、夜遊びして、遅く帰って来た時、説得して非をなじるのではなく、つい感情的に怒鳴ってしまう。彼女は、誰に似たのか気が強く、親に反抗することが多かった。妻がほとんど面倒をみていた。息子は、姉の姿を見て、怒られるのが嫌で、反抗しなかったのかもしれない。
私の仕事は、早朝から夜遅くまでの長時間労働だった。休日が日曜ではなく平日だった。子どもと一緒によく遊んだとは言えない。しかし、夏休みにはキャンプへ行ったし、家族で田舎へ帰る途中、旅館に泊まり観光し、毎年一回は家族旅行を繰り返していた。彼が二十五歳の時、既に就職していたが、私は六十歳定年となり、東京から夫婦で故郷の福岡へ戻り、父母の住む実家の近くに家を建て、住んでいる。
若者がアパートに一人住まいで会社勤めしていれば、異性の友達を捜し、楽しく青春時代を過ごすだろうと期待した。相性の良い女性と巡り合い、家庭を作り、子どもたちと遊び育てる。それが、私の場合は理想の夢だったし、体験した。仕事は辛いが、家族を養うためと、我慢して働き、妻に給料を渡す。私も自分の親を見習って、そうした。親の恩は忘れずに親孝行したいと願った。
親孝行って何だろうかと考えた。私の存在は親から奇跡を与えられと思う。人生という色々経験できる環境の中へ、生き物として私を産んでくれた。現実には父母の性行為により生まれ出たのであるが。乳を与えられ、食べさせてもらい、学校へ行かせてくれた。社会へ出て、人々の仲間にいれてもらい、仕事をし、金を頂き生活する。物事を前向きに考え、その中に小さなことだけれど、多くの楽しみや喜びがある。それを享受できるのは、親があってからこそである。親には終生感謝しなければならないと思う。一年に一度は家族を連れ故郷へ帰る。両親は歓迎してくれ海辺の料理屋へ連れて行ってご馳走してくれる。両親としては、金も掛かるし面倒くさいと思っていただろう。しかし内心は子どもが家族を連れ、訪ねてくるのは嬉しかったに違いない。私達も両親を関東に呼んで、近場の温泉で一泊するのを何回も行った。喜んでくれただろうと思う。「親孝行だね」と言われたこともある。妻や子供はどう思っただろうか。故郷へ毎年旅行することを、嫌がったりはしなかった。妻は、観光地へ家族旅行をしたかっただろう。
息子にも私がしたようなことを望んだ。妻と共に彼が三十歳を過ぎた頃から、「そろそろ身を固めたら」と、帰省するたびに、優しく責めた。彼の答えは、「そのうち、時期がきたら」とはっきりしない。プライベートなことは、あまり話さない。聞けば趣味の話はする。異性との付き合いは秘密といえば、そんな場面もあることだろう。それはそれでいい。どんな女でもいい。出来ちゃった結婚歓迎。彼が好きな女なら、結婚すればいい。一度、「彼女が親と上手くやれるか分からない」と妻に話したことがある。「あなたが好きなら、家に来たくなければそれでもいいよ。結婚すればいいじゃない」と妻は言った。
一度、こちらで良い娘さんを紹介することを、夫婦で計画した。妻が井筒屋デパートで買い物をするとき、知り合いとなった店員さんがいた。未婚で応対の上手な二十八歳の娘さんだった。「家の息子が関東で働いていて、三十三歳なのに未婚なのですよ」と話しかけ、一度見合いでもしてもらえませんか話しかけた。「ご夫婦の息子さんだったら、良い人に違いありません。私も年頃ですから、会ってもいいですよ」ということになった。妻は喜び勇んで息子へ電話した。息子は「見合いはいらないよ。自分で見つけるから」と言い張る。女のこと付き合っている話しなど聞いたこともない。何とかして合わせたいと思い。妻の発案で、妻が仮病を装い、涙ながらこちらに来て見合いをしてくれと電話で説得した。
息子は、いやいやながら福岡へやって来た。小倉のRホテルのレストランで、我々夫婦と息子と娘さんでコーヒーを飲みながら紹介した。息子の様子は好意を持っているような感じが覗えた。娘さんは明るく可愛くて堂々としていた。「この後は二人でデートして」と我々は、去って行った。十ヵ月間、彼と娘さんは付き合った。時々、我々も地元の彼女と食事をし、その後の経過などの話をした。妻も私も娘さんをとても気に入っていた。「息子さんと結婚してもいいですよ」と我々に笑顔で応えてくれた。
息子が彼女を関東に招待したこともあった。「結婚してください」と相手に言えば、彼女は分かりましたというはずだった。息子は優柔不断なところあり、十ヵ月もの間、遠距離交際しても結婚の申し込みをしない。我々には内密で何回も福岡に来て二人でデートしたはずだった。見合いにしては結論を出すのが遅すぎる。ついに、彼女から妻へ電話あった。「息子さんは他に好きな人もいらっしゃるようなので、この件は終わりにします」とのことだった。「息子さんも分かりましたとの返事でした」と紹介者の我々に電話があった。息子を責めると「今度デートする時に、申し込みしようと思った」と言った。
その後、正月に帰省する度に、私は彼と、「結婚はどうする」と先祖の仏壇の前で、討論。「そのうち」で終わった。見合いを捜してやるから、という申し出に、一切お断りという対応だった。結婚に対してだけは、拒否反応を示した。
携帯に電話したら、普通の話はスムーズに優しく話すが、結婚の話に進むと、途中で電話を切ってしまう。妻は最近になると、諦めたのかもしれない。彼が四十四歳になった今でも、「結婚してもらいたい。孫を抱きたい」と私は熱望する。
我々の死後、彼は独居老人で身寄りもなく、侘しい老後を過ごすのだろうか。誰かパートナーでもいれば、お互い支え合い、理解し合い、生きることは、素晴らしいことだ。やむを得なければ離婚してもいいと思う。一度は結婚し、所帯を持つ経験はあってもいいと思う。折角の命を、人生の一番の楽しみを味わわず、消滅することは、残念なことだと思う。
彼が三十五歳の頃、電話で私が結婚しろと強いるので「結婚しない人間は、半人前なのか!クズなのか?」と、泣きそうな感じで言った。誰かに、そう言われたのだろうか。言葉を濁した。「そんなことは無いよ。お前は仕事をし、独立して生きている。一人前の男だ」と慰めた。今なら「結婚しないお前は、半人前だ。早く結婚しろ」ときっぱり言うに違いない。私も賞味期限迫る年になった。生きているうちに、「君の結婚するのを見てみたい」と心では叫び続ける。
昨年五月、夫婦で趣味の宿場町見学をしている時、嘉麻市の元宿場で父が鍛冶屋をやっていたという山本さん家族との出会いがあった。鍛冶屋の作業場を見せてもらい、家の中まであがり、古い資料も見せてもらった。小さな子ども二人は我々に懐いてくれた。孫が欲しいなと心が呟く。ゴールデンウイークで、妹さんが家に戻っていた。美大を卒業し東京の広告制作会社勤めで、新宿に住んでいるそうだ。大学卒業作品に父の鍛冶屋の写真と文章を書き、「つなぐもの 鍛冶屋の記憶」という本を作成されていた。色々、話しているうちに、三十八才で独身だという。「若いとき、結婚すればよかったと反省している面もある」と言われる。「家の息子も大宮に居て独身です。一度、付き合ってくれないですか」と、不躾なお願いをした。「ご夫婦の息子さんだったら、人物もいいに違いないですから、いいですよ」姉妹ともに乗り気になってくれた。
息子に連絡すると「俺はいらないよ」という。こちらは、何とかしたいと思うので、妹さんから息子へ電話してもらうことにした。うまく行くことを、神社に行きお願いした。息子からメールが入った。「今、気になる人がいるから、と断っておいたよ」という。その後、電話してもメールしても出ない。私は切れてメールを打った。言ったこともない「バカヤロウ!この親不孝者が!」と。
それ以来、半年経つが何の音沙汰もない。妻が他の件でメールすると優しく返事がくる。私の心は悩みの渦の中にある。妻は「もう諦めなさい。息子には息子の人生があり、自分で決める。大人なのだから」と言う。我々で作った息子ではあるが、所有権があるわけではない。本人が何を考え独り身を貫くのか、理解できない。人間の頭の中を、覗けるものなら見てみたい。だが、考えていることは本人の自由である。私は干渉することを断念した。息子が幸せであれば、それでいいじゃないか。 R4.03.08 下邑成秋
送ってしまってから後悔が渦のように心の底で回り続けて、抜け出せない。あいつが、メールの文を読んだのかどうかは分からない。ナシのツブテなのである。携帯へ電話をかけても、メールを送っても返事がない。息子は遠く離れた所に住み、仕事をし、日常生活を送り、自分の好きな趣味を持ち、人生を過ごしている。
「親に何の迷惑もかけることなく、自主独立している。そんな息子に一体なんの問題があるの」と妻は言う。
[彼女は、観音様の生まれ変わりか。悟りきったような事を言うじゃないか]面と向かっては言えないが内心はささやく。逆に、息子は[この阿保!クソ爺]と反抗したいと思っているだろう。そう応じてくれれば、こちらも腹を立て、感情的に怒鳴り返すだろうに。何も言わないということが、一番難しい。相手の頭の中は、何を考えているのか推測がつかない。私の無理強いに本心は怒っているが、言葉に表現して反発しない。これも、あいつの優しさかもしれない。
息子の仕事はコンピューターのシステムエンジニア―である。大学は法学部だったが、難しそうな電子言語を使ってプログラムを組み立てるという。私には内容の分からない仕事である。病院の会計処理を自動的に計算し、患者の支払いを迅速、スムーズに処理するシステムを構築し、病院のコンピューターに導入する仕事らしい。同じ会社へ二十年年近く勤めている。大事な立派な仕事だと思う。世間では長時間労働で、離職したり、ノイローゼになったりする者もいる。厳しい職種と悪評判である。よく続いているな。その中には波乱万丈なこともあったのではないだろうか。仕事のことは、話したこともない。所詮、話しても、親父には理解できないだろうという態度がある。こちらも理解しようともしない。人の脳みその中身はそれぞれの考えがあり、自身で葛藤しているのだろう。
息子は真面目で優しい。問題を起こしたことは、一度もない。バイクや自転車や山にも登るらしい。服装にも気を遣っているようだ。毎年、年末年始には我々の家にやってきて、ご馳走を食べ、大酒を食らう。一月三日には東京の方に帰っていく。何の問題もない良い男なのである。
だが何故かこの年になっても、結婚しないのである。常識では三十歳くらいで結婚し、所帯を持ち子どもを作り、夫婦共同で子育てをする。学校を出て働き出せば、一人前の大人であり、あとは親が干渉することはなく、自主性に任せる。困難なことがあり相談されれば、親はいつでも、全力で応援する。子どもを育て、次の世代へ引き継ぐ。人類が永遠に存在し続ける基本であると思う。
それは、親父の古臭い世間体をおもねった考えではないのかと、奴の頭の中にはあるかもしれない。それを言っちゃおしまいよ。おれは黙秘権を使い、自分のやりたいことをやるのだ。離れて住み、便りが無いのは、元気な印を決め込んでいる、のかもしれない。
同性愛も公認される世の中だが、全員、同じ行為をすれば人類は滅ぶ。少数意見を大事にすることは、大切だと思う。しかし、本質的なものは、ゆるがせないものがあるのではないだろうか。息子がその傾向があるとは、思えない。彼は帰省し家に泊まると、私の尻を撫でる癖がある。「やめろ。早く結婚して嫁の尻でも触れ」と怒鳴るが、「スキンシップ」と言いニタッと笑う。「うっとしいな」と本気で怒るとやめる。女の仕草をしないし、大酒を飲むし、女装趣味でもない。
子供の頃から、息子を怒ったことがない。思春期にも、私が親父に反抗したような、抵抗をしなかった。3歳年上の姉がいるが、娘には怒ったことがあった。高校生の頃、夜遊びして、遅く帰って来た時、説得して非をなじるのではなく、つい感情的に怒鳴ってしまう。彼女は、誰に似たのか気が強く、親に反抗することが多かった。妻がほとんど面倒をみていた。息子は、姉の姿を見て、怒られるのが嫌で、反抗しなかったのかもしれない。
私の仕事は、早朝から夜遅くまでの長時間労働だった。休日が日曜ではなく平日だった。子どもと一緒によく遊んだとは言えない。しかし、夏休みにはキャンプへ行ったし、家族で田舎へ帰る途中、旅館に泊まり観光し、毎年一回は家族旅行を繰り返していた。彼が二十五歳の時、既に就職していたが、私は六十歳定年となり、東京から夫婦で故郷の福岡へ戻り、父母の住む実家の近くに家を建て、住んでいる。
若者がアパートに一人住まいで会社勤めしていれば、異性の友達を捜し、楽しく青春時代を過ごすだろうと期待した。相性の良い女性と巡り合い、家庭を作り、子どもたちと遊び育てる。それが、私の場合は理想の夢だったし、体験した。仕事は辛いが、家族を養うためと、我慢して働き、妻に給料を渡す。私も自分の親を見習って、そうした。親の恩は忘れずに親孝行したいと願った。
親孝行って何だろうかと考えた。私の存在は親から奇跡を与えられと思う。人生という色々経験できる環境の中へ、生き物として私を産んでくれた。現実には父母の性行為により生まれ出たのであるが。乳を与えられ、食べさせてもらい、学校へ行かせてくれた。社会へ出て、人々の仲間にいれてもらい、仕事をし、金を頂き生活する。物事を前向きに考え、その中に小さなことだけれど、多くの楽しみや喜びがある。それを享受できるのは、親があってからこそである。親には終生感謝しなければならないと思う。一年に一度は家族を連れ故郷へ帰る。両親は歓迎してくれ海辺の料理屋へ連れて行ってご馳走してくれる。両親としては、金も掛かるし面倒くさいと思っていただろう。しかし内心は子どもが家族を連れ、訪ねてくるのは嬉しかったに違いない。私達も両親を関東に呼んで、近場の温泉で一泊するのを何回も行った。喜んでくれただろうと思う。「親孝行だね」と言われたこともある。妻や子供はどう思っただろうか。故郷へ毎年旅行することを、嫌がったりはしなかった。妻は、観光地へ家族旅行をしたかっただろう。
息子にも私がしたようなことを望んだ。妻と共に彼が三十歳を過ぎた頃から、「そろそろ身を固めたら」と、帰省するたびに、優しく責めた。彼の答えは、「そのうち、時期がきたら」とはっきりしない。プライベートなことは、あまり話さない。聞けば趣味の話はする。異性との付き合いは秘密といえば、そんな場面もあることだろう。それはそれでいい。どんな女でもいい。出来ちゃった結婚歓迎。彼が好きな女なら、結婚すればいい。一度、「彼女が親と上手くやれるか分からない」と妻に話したことがある。「あなたが好きなら、家に来たくなければそれでもいいよ。結婚すればいいじゃない」と妻は言った。
一度、こちらで良い娘さんを紹介することを、夫婦で計画した。妻が井筒屋デパートで買い物をするとき、知り合いとなった店員さんがいた。未婚で応対の上手な二十八歳の娘さんだった。「家の息子が関東で働いていて、三十三歳なのに未婚なのですよ」と話しかけ、一度見合いでもしてもらえませんか話しかけた。「ご夫婦の息子さんだったら、良い人に違いありません。私も年頃ですから、会ってもいいですよ」ということになった。妻は喜び勇んで息子へ電話した。息子は「見合いはいらないよ。自分で見つけるから」と言い張る。女のこと付き合っている話しなど聞いたこともない。何とかして合わせたいと思い。妻の発案で、妻が仮病を装い、涙ながらこちらに来て見合いをしてくれと電話で説得した。
息子は、いやいやながら福岡へやって来た。小倉のRホテルのレストランで、我々夫婦と息子と娘さんでコーヒーを飲みながら紹介した。息子の様子は好意を持っているような感じが覗えた。娘さんは明るく可愛くて堂々としていた。「この後は二人でデートして」と我々は、去って行った。十ヵ月間、彼と娘さんは付き合った。時々、我々も地元の彼女と食事をし、その後の経過などの話をした。妻も私も娘さんをとても気に入っていた。「息子さんと結婚してもいいですよ」と我々に笑顔で応えてくれた。
息子が彼女を関東に招待したこともあった。「結婚してください」と相手に言えば、彼女は分かりましたというはずだった。息子は優柔不断なところあり、十ヵ月もの間、遠距離交際しても結婚の申し込みをしない。我々には内密で何回も福岡に来て二人でデートしたはずだった。見合いにしては結論を出すのが遅すぎる。ついに、彼女から妻へ電話あった。「息子さんは他に好きな人もいらっしゃるようなので、この件は終わりにします」とのことだった。「息子さんも分かりましたとの返事でした」と紹介者の我々に電話があった。息子を責めると「今度デートする時に、申し込みしようと思った」と言った。
その後、正月に帰省する度に、私は彼と、「結婚はどうする」と先祖の仏壇の前で、討論。「そのうち」で終わった。見合いを捜してやるから、という申し出に、一切お断りという対応だった。結婚に対してだけは、拒否反応を示した。
携帯に電話したら、普通の話はスムーズに優しく話すが、結婚の話に進むと、途中で電話を切ってしまう。妻は最近になると、諦めたのかもしれない。彼が四十四歳になった今でも、「結婚してもらいたい。孫を抱きたい」と私は熱望する。
我々の死後、彼は独居老人で身寄りもなく、侘しい老後を過ごすのだろうか。誰かパートナーでもいれば、お互い支え合い、理解し合い、生きることは、素晴らしいことだ。やむを得なければ離婚してもいいと思う。一度は結婚し、所帯を持つ経験はあってもいいと思う。折角の命を、人生の一番の楽しみを味わわず、消滅することは、残念なことだと思う。
彼が三十五歳の頃、電話で私が結婚しろと強いるので「結婚しない人間は、半人前なのか!クズなのか?」と、泣きそうな感じで言った。誰かに、そう言われたのだろうか。言葉を濁した。「そんなことは無いよ。お前は仕事をし、独立して生きている。一人前の男だ」と慰めた。今なら「結婚しないお前は、半人前だ。早く結婚しろ」ときっぱり言うに違いない。私も賞味期限迫る年になった。生きているうちに、「君の結婚するのを見てみたい」と心では叫び続ける。
昨年五月、夫婦で趣味の宿場町見学をしている時、嘉麻市の元宿場で父が鍛冶屋をやっていたという山本さん家族との出会いがあった。鍛冶屋の作業場を見せてもらい、家の中まであがり、古い資料も見せてもらった。小さな子ども二人は我々に懐いてくれた。孫が欲しいなと心が呟く。ゴールデンウイークで、妹さんが家に戻っていた。美大を卒業し東京の広告制作会社勤めで、新宿に住んでいるそうだ。大学卒業作品に父の鍛冶屋の写真と文章を書き、「つなぐもの 鍛冶屋の記憶」という本を作成されていた。色々、話しているうちに、三十八才で独身だという。「若いとき、結婚すればよかったと反省している面もある」と言われる。「家の息子も大宮に居て独身です。一度、付き合ってくれないですか」と、不躾なお願いをした。「ご夫婦の息子さんだったら、人物もいいに違いないですから、いいですよ」姉妹ともに乗り気になってくれた。
息子に連絡すると「俺はいらないよ」という。こちらは、何とかしたいと思うので、妹さんから息子へ電話してもらうことにした。うまく行くことを、神社に行きお願いした。息子からメールが入った。「今、気になる人がいるから、と断っておいたよ」という。その後、電話してもメールしても出ない。私は切れてメールを打った。言ったこともない「バカヤロウ!この親不孝者が!」と。
それ以来、半年経つが何の音沙汰もない。妻が他の件でメールすると優しく返事がくる。私の心は悩みの渦の中にある。妻は「もう諦めなさい。息子には息子の人生があり、自分で決める。大人なのだから」と言う。我々で作った息子ではあるが、所有権があるわけではない。本人が何を考え独り身を貫くのか、理解できない。人間の頭の中を、覗けるものなら見てみたい。だが、考えていることは本人の自由である。私は干渉することを断念した。息子が幸せであれば、それでいいじゃないか。 R4.03.08 下邑成秋