第48話 楽器への誘い エッセイ

文字数 3,763文字

 小学生の頃から音楽は苦手だった。音楽は数学と密接な関係ある、頭脳の問題だという。童謡や口笛は勘で出来るが、音の聞き分けや、音符記号は脳の働きが要る。子供の私には分からなかったそれが今はーーー。
 かつて学芸会で、クラス全員がハーモニカを吹くことになり、オルガンを弾く先生に合わせて練習する。私は、操作ができない。通信簿で音楽は、「劣る」の成績だった。親は、何も言わず、子供心にこれは「普通」と盲信する。
 大勢見ている舞台で並ぶのは、恥ずかしいし、ハーモニカを操れないとなおさらだ。「調子外れは目立ってしまう。吹き真似をしよう」と、楽器に口だけ付けていた。「あいつ下手」と非難されるのは地獄だった。今思えば、吹けない子が何人もいたのではないだろうか。話し合う友達もいなかった。劣等感は、子どもの人格形成に悪い。吹き方をもっと詳しく、個別に先生も教えてくれれば、楽器と仲良くなれただろう。
 大学生の頃、安いソノシートとレコードプレーヤーを買って、下宿の部屋で交響曲というものを初めて聴いた。知識もなく、超有名な曲だということで掛けた。「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」の勇壮な部分だけ、頭に滲みている。「ベートーベンの交響曲第五番というのか。聞いているだけでも、いいな」と尤もらしく感心する。
 それ以上の進展はなかった。興味の入口に立つが、更に入っていけない。その時、一歩踏み込みがほしかった。中途半端な性格なのか。母が「あんたは、好きやすの飽きやすだわね」とよく言った。肝に銘じたいが、「自分で考える」ことを気付けない。
 就職した頃、ビートルズナンバーが全盛期であった。先輩が、寮の娯楽室でキーボードを叩き演奏をしている。「羨ましい。あんなふうに楽器をひけたら、女の子に持てるかもな」と邪な気持ちもあった。秘かにギターを買った。上手く弾ければ誰かに自慢出来る。それに持てるかも、ギター教則本も揃えた。だが子供時代の思い出が頭をもたげる。「お前は、楽器は無理だろ」と冷笑する。やる気はあるが、先へ進めない。不甲斐なく惨め。周りに音楽をする友もいなかった。
 教則本を読むだけで、調弦も知らずでは、ギターを弾くのは無理である。ギターは六弦が張られ、二十の仕切りがある。百二十音がでる。左手の指で弦を押さえ、右手の指で弦を爪弾く。右・左が別作動しなければならない。それだけの神経がいる。指導者に教わらず、楽器を弾けるはずはない。
 結婚後、妻とコンサートに出掛けた。分かった振りして、聴衆に紛れ拍手する。しかし、曲名や作曲者などは、さっぱり覚えられない。それでもオーケストラの生の演奏を聴いているだけで、気持ちよく、心は満たされる。音楽は喋らない。聴いた人の感受性で色々な受け取り方があると、いわれている。
 遂に、ステレオセットを買い揃えた。当時、音楽向きFM放送でクラシック名曲を流していた。カセットテープに名指揮者の数々を録音した。澄んだ楽器の音色が、大スピーカーから流れる。うっとりしながら聴いたものだ。音楽はするものでなく、聴くものであると自分を納得させた。今のデジタル音響は、薄っぺらな機械的な感がし、深みがない。昔録音のテープを、昔のステレオで聴いてみると、澄み切った豊かな音が再現される。
 定年を五年後に控えた休日。都会の駅の通路で、西洋人の若い男女が、演奏している。カジュアルな服装で、軽やかに音楽を奏でる。当時流行っていた、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」だった。ケーナを鳴らす女性とギター伴奏の男性の姿が、格好良い。ゆったりした心安らぐ曲。五千メートルのアンデス山脈の空を、羽根を広げ、飛んでいるコンドルの情景を想像できる。それは「音楽って格好いいな。聴くだけでなく、楽器をやってみたい」と私の直感は訴える。定年後の趣味を身につけることも楽しそうだ。そろそろ準備しなくては。
テレビで、ケーキ屋のご主人が、ケーナ演奏をお客に聴かせている情報番組があった。客の席に行き、白帽白衣の男性が「コンドルは飛んで」を楽しそうに吹いている。・「これだ!あの細い尺八のような楽器で、曲を演奏してみたい」と思った。「優しそうな洋菓子屋さんに師事し、人前で披露できるくらいになりたい」という野望が心に芽生えた。
 「願いは達成するためにある」と、人生の過程で何度も経験していた。結婚適齢の頃、ガールフレンドもいなかった。しかし世間並みに所帯を持ちたい。願望を抱いていた。叔母が見合いを数件紹介してくれたが、振られっぱなし。「結婚願望」に終らせず成就するため、色々考え、自ら行動に移した。しまいに「清水の舞台から飛び降りる」つもりだった。職場に入ってきた若い娘にアタックした。不細工な顔でも、熱意を持って臨めば、女性も情ほだされ、「まあ、この人でも良いか」と思ってくれるかも知れない。譲歩だってあるかも。「願いは叶えるためにある」と猛進する。今、古稀を迎えた妻に聞くと、「結婚って、若い勢いが必要よね」と言った。核心をついた言葉だ。
 私は「清水の決意」で、埼玉県幸手の「ラ・ケーナ」という洋菓子店を探しあて、行った。おずおずと、ご主人に、「聴かせてください」とお願いした。素朴な音色がケーナから創りだされる。生演奏に、先生のにこやかさに虜になった。南米民族音楽との出合いである。
 フォルクローレの日本導入の草分けといわれる東出五国先生との出会いでもあった。かつて、音楽教室でフォルクローレを指導されていたらしい。「私が教えているグループがあります。加入してみませんか」と誘って頂いた。月一回、幸手公民館で「まだタマゴ」というグループが練習していた。きりっとした中年女性の駒田さんがリーダー。四人のメンバーも、快く受け入れてくれた。楽器を覚えるには、先達なくしては有り得ない。この人々との出会いが、「楽器をものにしたい」という私の夢を見させてくれることになる。
 「ケーナ」は、学校教材の「リコーダー」と似ている。長さ三十センチの真竹に、穴が七個開き、歌口から息を吹き込み、「ドレミファソラシ」の音を出す。アンデスの昔、死んだ動物の骨が風に吹かれ鳴り出したのから始まる。一月経つと、先生が個人指導してくれたメロディをゆっくり吹けるようになった。先生は、チャランゴという小型の弦楽器で、リズムを奏でる。ケーナの上下、ギターにチャランゴの弦、ボンボの打楽器がハーモニーを空間に花を咲かせる。幼児期のもやもやとした楽器への劣等感がいつしか消えた。
 「ギター伴奏も教えましょう」と温かい。楽器を買うと先生は「コードを十個覚えれば、フォルクローレは、だいたい伴奏できます」と言われた。複雑なコード表を覚えきれないと悩んでいたのに、手書きの指を押さえるコード表を頂く。これは今や私の宝物である。調弦の仕方も教授。ギターコードを三本の指で押さえ、「ジャラーン」と弦をこすると、和音ができる。「これが三和音のコードというのだ」。私が長い間、憧れていたギターのハーモニーの響きだった。
 「まだタマゴ」と共に、五年の間に、町内の祭りなどへ、出演した。また東出先生が主催する「夕焼けコンサート」に毎年出る。初夏の荒川土手は夕焼けどき、河原の長く伸びた草を、参加者五十人位で踏み倒し、会場を作る。先生が呼びかけた十グループが、日頃練習したフォルクローレを、披露する。様々な曲目を熱い思いで、楽器を奏でる。盲目のボンボを叩く人もいた。心に沁みるような響きが忘れられない。夜、辺りは真っ暗。スタンド照明を点け、情熱的な演奏が続く。聴衆もリズムに乗り、手拍子を叩く。フィナーレだ。踏みしめた草の上に、総立ちになり、アンデスの名曲「花祭り」を大合奏。全員が、跳ね、踊りまわる。一緒に見にきてくれた妻が「闇夜のなか、まるで踊る宗教のようだわ」と驚いていた。
 六十歳の定年を迎え、関東から福岡へ妻と転居し、年老いた両親に親孝行をした。働き蜂から仕事が無くなった時の、姥捨て状態は辛い。無為な時間が体をすり抜ける。認知症はこうやって始まるのだと体感する。「そうだ。フォルクローレをやる人、この指とまれ」をやろう。水巻町公民館に、「フォルクローレ同好者募集」と模造紙に大書し、張らせて貰った。「願い事は叶えるためにある」の猛進である。六人のメンバーが集った。埼玉の駒田さんが、音符と録音テープを福岡まで送り続けてくれる。彼女がいなければ、私の音楽は続かなかった。大切な恩人である。メンバーは、駒田さんが送ってくれる曲のコピー演奏が出来るまでに成長した。地域の祭りに参加し、演奏をこなす。
 コロナ禍で三年間中断したが、令和五年三月、前に出演した「鞍手マルシェ」からお呼びが掛った。一ヵ月練習し、何とか舞台で演奏を果たした。ハーモニカにトラウマだった私が、「やっぱり、ハーモニーはいいね」とみんなと喜ぶ。
 出来ればどこの家庭にも楽器があって、ときには歌い伴奏する。楽しいし、これは文化だ。最近は、自室でギター伴奏しながら、一人歌うことが多い。音楽を楽しむのは、自分のためである。歌とギターの和音が快く心の内に響き渡ってくる。
              令和五年五月二十七日
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