第64話 旦過お雲水 エッセイ

文字数 3,673文字

 魚町銀天街がある小倉は、アーケード街の発祥の地である。信号をわたった先に、旦過市場(たんがいちば)が続く。戦後、建てられた市場である。両側に個人商店が並ぶ、大半が食料品の店である。間口一間の店も少なくない。魚屋、肉屋、八百屋、米屋、果物屋、ホルモン屋、寿司屋、飲み屋、・・・。道行く客に「いらっしゃい」と声をかける。裸電球をつけ、商品を棚板に並べ、昔懐かし商いの原点の感じがする。地元の人の食卓にのぼる食材を買い求め、観光客も珍しがって、やって来る。ごちゃごちゃした感じだが、これがまたいい。省人化の一方、販売や無菌化した商品管理、華美な店舗は、客との人間関係が薄くなり、どこか冷たい感じがする。
 数年前、旦過市場は火をだした。古くて、密集した木造商店は、瞬く間に、燃え広がった。何十軒もの残骸は、悲惨なものだった。愛着ある古い商店街に、多くの義援金が寄せられ、行政の援助もあり、今、再び息を吹き返しつつある。
 旦過市場をなんとなく「たんがいちば」と言ってきたが、旦過の意味を知らなかった。ふと疑問に思い、ネットで調べた。小倉藩の小笠原藩主の頃、この近くに修行寺があり、雲水を一日泊める所があった。仏教用語で、「一旦泊り過す」というらしい。雲水は、僧侶見習中の者である。水は蒸発すると雲となる、そんな意味なのだろうか。一人前のお坊さんになるには、何年もの厳しい修練を積まねばならない。
 特に修行の厳しいのが、臨済宗の道場らしい。臨済宗は武家の宗教として信仰されていた。久留米市に、久留米藩の殿様・有馬家の菩提寺があり、梅林寺という。我が家の先祖も、久留米藩の下侍として、殿にお仕えし、小さな墓が梅林寺にある。
 盆や彼岸には、梅林寺に行き、花や線香をあげ、お参りする。寺は、臨済宗の「禅」による専門道場でもある。老師が居住し、師家(しけ)と呼ばれ、雲水を六人ほど抱え、僧侶となる教育を施す。雲水にとってはこれが修行である。江戸時代になされた生活体系はそのまま踏襲されており、進化した現代生活から見ると、辛く厳しい。
 私も座禅を、経験したことがある。足を組み、両手を膝の上に重ねて三十分、姿勢を正す。眼は半眼、何も考えず座り続ける。動いてもいけない。ベテラン修行者は、夏、蚊に食われても、動ぜず。血を吸われるまま、腹いっぱいで落ちた蚊を数えるくらい不動の姿勢を保つのだそうだ。「考えるな」と言われても、意外と難しい。我々は、日常生活では、眼で見、耳で聞き、体で感じ、何かしら、「これはなんだろう」と考え続ける。偶には、世の雑念にとらわれないことも、健全な精神には必要なことだろう。
 梅林寺では、老師の下で三年半にわたり厳しい修業を受けなければならない。雲水が毎日、箒を持って掃除する広い境内は、常に整然としている。境内にある数百軒の先祖墓の前には、筒があり榊が飾られている。
 私が、彼岸にお参りし、手を合わせ拝んでいると、お墓の底からなにやら声がする。「この寺の雲水さんは厳しい修業をされているぞ」とご先祖様が仰っているようだ。 「どんな修行生活をされているのですか?」と、おずおず尋ねると「仏教の昔ながらの戒律を守り、十二月の始めには、蝋八(ろうはつ)という一週間寝ずに、軒の下で坐禅をすることもある。最近の若い者は気楽な生活が当り前と思っている者も多い。昔の仕来りを訓練するだけなのに、辛い修行に耐えきれず、逃げ出していく軟弱者もいるぞ」とお話になる。これを聴き「私にも、とても耐えられないかも知れませんご先祖様」と、なまくら年金生活を続けている私は反省した。
 雲水の起床は朝三時半である。私の場合、夜中のトイレに起き、再び寝る早朝である。百畳はある本堂では、般若心経からの読経が始まる。それが終わると、禅堂での坐禅。これが長い。無念無想、壁に向かって、半眼で座禅を組む。お線香の燃え尽きるまでの間。途中で、眠気が差すと、警策棒(けいさくぼう)が、ピシャリとくる。
 一休さんのように頭を使う修行も、大切なものである。雲水は一人ずつ師家である老師の部屋に行く。老師から授けられた公案という問題の回答を毎日、提示しなければならない。正解しないと、「違う。考え直してこい」とかばりに師家に厳しく叱られる。
 お寺に墓参りした後、私は納所(なっしょ)という寺の事務担当の雲水に尋ねることがある。「公案の内容は、どんなものですか」と、「例えば、片手で音を出すにはどうするか?と師家に問われました。毎日、いろいろな答を考え提示するのですが、師家は、違う。もっと深く考えろ!と叱られる。もう悩みますよ。考えられる全てを探します。寺には、新聞もテレビもスマホもありません。自分で考えろということです。『正解だ』といって貰うのに二ヵ月掛りました」と、言い苦しい体験はいまも続いていることを吐露する。禅宗では、疑問によって悟りを求める看話禅(かんなぜん)というものらしい。
 「食のほうは、どんなものですか」と尋ねると、「食事も修業のひとつになります。朝食は、ご飯をお湯で薄めたお粥と、漬物のみです」。朝は、食べないという若者もいるようなので、これはそれほど辛くはない。「昼は、米入り麦飯と、庭で採れた野菜を煮たり炒めたり、それと味噌汁だけです」。肉や魚などはなく、一汁一菜である。極端過ぎはしないか、と私は思った。「夜は本来、食事なしですが、掃除や草刈りの労働も多く、体力を維持する為、昼の残り物を食べさして貰っています」と云う。 
 それにしても、雲水の若者たちは、それ程、痩せてはいないように見える。毎日たったそれだけ。現代の食生活と比べ、内容が単純すぎるし、量も少なすぎる感じがした。驚きながら、「なにかその他に、隠し食いなどがあるのではないですか?」追及すると、一着しか与えられていない、継ぎ接ぎだらけの作務衣を着た雲水は「御椀に大盛三杯まで、麦飯のお代わりができます」と二コリと、私を見て嬉しそうに笑った。檀家へ盆の法事に行くときは、一張羅の墨染めの法衣を着て、白足袋をはき、我家の仏壇にも参ってくれる。お寺では、年中、作務衣に裸足であり、足の裏はひび割れしている。修行の厳しさを感じ、「頑張れ若者よ」と激励したくなる。
 生涯妻帯しない定めの老師は、この寺に住んで何十年にもなられる。花園大学を出て、修行され、梅林寺で副住職になり、そして老師になられた。臨済宗の僧侶として一生をささげられているようだ。我が家にも、先代の老師から自筆の掛軸をいただいたことがあった。軸には「人生は 一筋がよし 寒椿」と書かれ、赤い椿の花が描かれていた。人々の人生行路は、その人だけの一筋の道なのだ。振り返ってみれば、私の人生も唯一つの生き方をしてきている。「人生とは何ぞや?」と問われても、私にはわからない。父が亡くなる前に、「人間死んだら、何も無くなってしまう」と、よく、嘆くように言っていた。私も、その年に段々近付いてきた。父の財産も身体も全てなくなり、今では、その面影すら薄らいでいくようだ。終わりのある人生は、寂しいことである。
 お寺では、老師も同じものを食べられている。法要での法衣姿は、凛として頭や顔は艶々し、行動も厳かで近付きがたい感じがする。父の葬儀の時、老師に来ていただいた。葬儀会館で大勢の参列者のなか、老師による法要が進められる。その最中、付き添いの雲水にミスがあったのか、突然、老師が、凛とした大声で叱責の「喝」をいれた。参列者も私も威厳のある「気合い」に、どきっとさせられた。死者へ三途の川で引導を渡す際も、大声で「喝」を叫ばれた。とても印象に残り、魂にふれるような葬儀であった。
 墓参りの時、納所の部屋に寄ると、黒い布から御椀二個と蓋三個に箸と匙を取り出した。「食事が終わりますと、お茶を椀に注ぎ清めます。そして、それを飲み干し、懐紙で拭き、その後、袱紗に仕舞うのです」と説明してくれた。法要で檀家に呼ばれたとき、お斎という食事を出す。その折、雲水は出された全ての飲食を許されているらしい。
 日頃、修行のため簡素な采食だけ、美味しいものは口にしないだろうと、施主としては、ステーキや刺身や白飯を用意し、もてなす。雲水は二十代の若者である。全てを見事に平らげ、出されたビールもグーッと何杯も飲み干す。修行中の唯一の楽しみであるようだ。住職になるには、心を磨くため辛酸な修行と菜食主義を三年半経験しないと、寺の跡を継げないと云う。
 梅林寺の広い玄関に一日座り、修行の申込を御願いする「旦過」の儀式を経て、本格的な修練の道に入らせて貰える。現代文明になれた我々には、信じられないような、生活をしている人がいる。原点を見つめ、「生きるとは何ぞや」と求道する若者の姿には感動させられることが多い。
 人の生き死のお務めに関わる僧侶の皆さまは、我々迷える凡俗を導いて下さると思う。旦過の修行僧には、がんばって仏の道を究めてほしいと、心から応援をしたい。
     
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