第87話 偸盗 芥川龍之介

文字数 1,280文字

しかしその間も阿濃(あこぎ)だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門の楼上に佇んで、遠くの月の出を眺めている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、旱(ひでり)に痩せた月は、徐にさみしく、中天に上がって行く。それにつれて、賀茂川に掛かっている橋が、その白々とした水光の上に、何時か暗く浮き上がって来た。
 独り賀茂川ばかりではない。さっきまでは、眼の下に黒く死人のにおいを蔵していた京の町も、僅かの間に、つめたい光の鍍金(めっき)をかけられて、今では、越の国の人が見ると云う蜃気楼(かいやぐら)のように、塔の九輪や伽藍の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、自ずから頂を朧げな月明かりにぼかしながら、どの峯も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄の上から、静かに荒廃した町を見下ろしているーーと、その中で、かすかに凌霄花(のうぜんかずら)のにおいがした。門の左右を埋める藪の所々から、簇々(そうそう)と蔓をのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずりおちそうになった瓦の上や、蜘蛛の巣をかけた楹(たるき)の間へ、はい上がったのがあるからであろう。
 窓によりかかった阿濃は、鼻の穴を大きくしてて、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。ー―彼女は双親を覚えていない。生まれた所の様子さえ、完く忘れている。何でも幼い時に一度、この羅生門のような、大きな丹塗(にぬり)の門の下を、誰かに抱くか、負われかして、通ったと云う記憶がある。が、これも勿論、どの位ほんとうだか、確かな事はわからない。唯、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてから後の事ばかりである。そうして、それが又、覚えていない方がよかったと思うような事ばかりである、或る時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。或る時は。飢えにせまってした盗みの咎で、裸の儘、地蔵堂の梁へつり上げられた。それがふと沙金に助けられて、自然とこの盗人の群れに入ったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持ってうまれた彼女にも、苦しみうぇお、苦しみと感じる心はある。阿濃は猪熊の婆の気に逆らっては、よくむごたらしく打擲(ちょうちゃく)された。猪熊の爺には、酔った勢で、よく無理難題を云いかけられた。ふだんは何かと劬(いたわ)ってくれる沙金でさえ、癇(かん)に障ると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、外の盗人たちは、打つにも叩くにも。用捨はない。阿濃は、その度に何時もこの羅生門の上へ逃げて来ては、独りでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしい語をかけてくれなかったら、恐らくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。 
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