第79話 源叔父 国木田独歩

文字数 1,390文字

 「我子とは紀州のことなり」源叔父は暫時漕ぐ手を止めて彦岳の方を見やり、顔赤らめて言放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥とも将た喜びともいひわけ難き情胸を衝きつ。足を船端にかけ櫓に力加えしと見るや、声高らかに歌いいでぬ。
 海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞ見えし。波紋は渚を打てり。山彦は微かに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山の彼方より今の我を呼ぶならずや。
 波止場に入りし時、翁は夢見る如き眼差しして問屋の灯火、影長く水にゆらぐを見たり、舟繋ぎ了れば臥座巻きて脇に抱き櫓を肩にして岸に上りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼瞠りて辺りを見回わしぬ。
「我が子よ今帰りしぞ」と呼び櫓を置くべき所に櫓置きて内に入りぬ。家内暗し。
「こは如何に、わが子よ今帰りぬ、早く灯点けずや」寂として応なし。
「紀州紀州」コオロギのふつづかに鳴くのみ。
 翁は慌てて懐中よりマッチ取り出し、一擦りすれば一間のうちに俄かに明るくなりつ、人らしき者見えず、暫時して又暗し、陰森の気床下より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆ランプに火を移し四辺を見回す眼差し鈍く、耳そばだてて「我が子よ」と呼びそ声しわがれて呼吸も迫りぬと覚し。源叔父は顔を両手に埋め深き溜息せり。この時もしやと思う事胸を衝きしに、つと立てば大粒の涙流れて頬をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし舷灯に火を移していそがわしく家を出で、城下の方を指して走りぬ。
蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行き過ぎんとして立ちとまり、日暮れのころ紀州この前を通らざりしかと問はば、気づかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。この夜業を妨げぬと笑面作つ、又急ぎ行けり。右は畑、左は堤の上を一列に老松並ぶ真直の道を半ば来りし時、行先ををゆくものくぁり。急ぎて灯火さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。身を前に屈めて歩めり。
「紀州ならずや」と呼びかけてその肩に手を掛けつ、
「独り何処に行かんとはする」怒、はた喜、はた悲、はた限りなき失望をただこの一言に包みしようなり。紀州は源叔父が顔見て驚きし様もなく、道ゆく人を門に立ちて心なく見やる如き様にて打守りぬ、翁は呆れて暫時言葉なし。
「寒からずや、早く帰れ我子」いいつつ紀州の手取りて連れ帰りぬ。みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、夕餉は戸棚に調え置きしものなどいひいひ行けり。紀州は一言もいわず、生憎に溜息もらす翁なり。
 家に帰るや、炉に火を盛んに燃てその傍に紀州を座らせ、戸棚より膳取り出して自身は食わず紀州にのみたべさす。紀州は翁の言うがままに翁のものまで食い尽くしぬ。その間、源叔父はをりをり紀州の顔見ては眼閉じ嘆息せり。たべ了りなば火にあたれといいて、うまかりしかと問う。紀州は眠気なる眼にて翁が顔を見て微かにうなづきしのみ。源叔父はこの様見るや、眠くば寝よと優しくいい、自ら床敷きて布団かけて遣りなどす。紀州の寝し後、翁は一人炉の前に座り、目を閉じて動かず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒せし顔には赤き焔の影覚束なく漂えり、頬を伝いてきらめくものは涙なるかも。
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