第90話 地獄変 芥川龍之介

文字数 1,070文字

 細川の大殿様は、これまで、また後の世にも二人といらっしゃらない人物でございましょう。大殿様の御一代の間に語り草になるような事は、沢山ございます。御家の重宝になっていおります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい。日頃は物に御騒ぎにならない大殿様でさえ、あの時ばかりは、流石に御驚きなさったようでございます。
 地獄変を描いたのは良秀と申す画師であります。彼は五十過ぎ、背の低い骨皮ばかりに痩せ、意地の悪そうな老人でした。吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強欲で、横柄で高慢で、いつも本朝一の絵師と鼻のさきにぶら下げていました。
 良秀に美人の一人娘がおり十五の時、小女房として、大殿様の御邸に上がっておりました。良秀は一人娘をまるで気違いのように可愛がっていました。娘もいたって気の優しい、親思いの女でござる。
 大殿様が突然良秀を御召しになって、地獄変の屏風を描くようにと、御云いつけなさいました。
良秀は五六箇月の間、昼も夜も一間に閉じ籠り、地獄変の屏風を描いた。或る日良秀は突然御邸へ参り、大殿様へ直の御眼通りを願いました。「あらましは出来あがりましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。私は総じて、見たものでなければ描けません」これを御聞きになり大殿様は、「地獄を見なければなるまいな」と仰った。
「私は屏風の唯中に、枇榔毛の車が一両空から落ちて来る所を描こうと思っておりまする。その車の中には、一人のあでやかな上臈が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでいるのでございまする。顔は煙に咽びながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いでおりましょう。手は下簾を引きちぎって、降りかかる火の粉の雨を防ごうとしているかも知れませぬ。そうしてそのまわりには、怪しげな猛禽が十羽となく、二十羽となく、嘴を鳴らして紛々と飛び繞っているのでございまする。ーああ、それが、その牛車の中の上臈が、どうしても私には描けませぬ」
「どうか枇榔毛の車を一両、私の見ている前で、火をかけて頂きとうございまする。そうしてもし出来まするならばーーー」
大殿様は、突然けたたましくお笑いになり、息をつまらせながら仰いますには、「おお、万事その方が申す通りに致して遣わそう。出来る出来なぬの詮議は無益の沙汰じゃ」
枇榔毛の車に火をかけよう。またその中にはあでやかな女を一人、上臈の装いをさせて乗せて遣わそう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をするーーそれを描こうと思いついたのは、流石に天下一の絵師じゃ。褒めてとらす。おお、誉めてとらすぞ」
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