第77話 三つの音楽会 エッセイ

文字数 3,339文字

 滅多に経験しないことだが、今年四月、私は三回ほど、生の音楽会を聴くことが出来た。
第一週の日曜は、小倉ソレイユで開催された「北九州オペラシティ音楽祭2024」である。プロの指揮者と三十人のプロの楽団が演奏し、百人のアマチュア合唱団がクラシックを歌う。三千五百円のチケットに千五百人の観客が見守る。 
 合唱団の一員に私の妻がいる。既に十数年参加の経験を持つ。一年前から、課題曲が配布され、メンバーと共に、音大出身のプロの声楽家の指導を受け練習する。
彼女は「アルト」という中間のパートを二十五人で歌う。主メロディの「ソプラノ」という高音のパートは五十人。「テナー」という低音の男性は二十五人。百人が同時に、歌を重ね合い、合唱するのである。高さの違う音を同時に出し音楽的な調和を生む「ハーモニー」が生み出され、聴く者の耳に快く響き、感動を与える。私は、音楽の内容とか技術のことは分からないが、聴いていて、とにかく素晴らしいと感じるのである。
 妻も、「合唱の際は、心が揺さぶられるほど感動する。練習自体が楽しい」という。彼女は、三千五百円の入場券を、十枚割り当てられ、そのほかに年間指導料が八万円だという。平均すると、月一万円の授業料になり、習い事としては普通の値段である。
 オーケストラ指揮は読売交響楽団の「小山貴之」氏で、十数年間に渡りシティオペラを指導している。その他の演奏者もプロであり、全国で活躍する高度な技量を持つ演奏家である。合唱団は全員アマチュアの無料奉仕者である。その中にも音大出身者は多いという。 
 音楽の才能があり、音大迄出たけれど、音楽の仕事だけでは生活できない人が多いらしい。プロとアマとの違いを考えた。プロは、音楽で金を稼ぎ生活でき人である。アマは、歌好きな人、または音大を卒業しても、週一回、休みの日に練習できるが、生活の為音楽と関係のない仕事をする人である。プロは、音楽に一日中携わることが出来、当然、演奏技術も才能も格段上である。プロは人に聞かせて金をとるだけの技量と才能がある。アマはそのレベルに達していない。
それでもいいと思う。音楽は楽しむためにあるものだ。毎日が外食だと、味が濃く、うまいが飽きてくる。家庭の食事はうす味だが飽きず、健康にも良い。
 観客は中高年の男女が多い。クラシック交響曲は、作曲者の元の音符を忠実に守るのが建前らしい。原曲は同じでも、指揮者により雰囲気が全く違うという。観客が指揮者の指先に集中したとき、指揮者は腕を振り上げ、力強く振り下ろす。全楽器が音を奏で出す。見事な調和音がホール一杯に広がる。
 最後に「ラデッキー行進曲」を演奏。指揮者は観客席に向き直り、観客も手拍子参加するよう身振りで促す。全員で盛り上がったコンサートであった。また来年も来たいと思う。
第二週の日曜日は、小倉の北九州芸術劇場で開催される「北九州交響楽団第131回定期演奏会」である。プロの指揮者と五十人のアマチュアの音楽愛好家が、クラシックを演奏する。千二百円のチケットと千人の観客である。
 チケットを手に入れたのは、十年来の知人である税理士Tさんからである。仕事の合間の雑談で、「息子が、中学の部活で管楽器のサックスに夢中になっている」と話していた。十数年が過ぎ、「息子は洗足音楽大を卒業したけれど、更に東京芸術大学の指揮科で勉強したいといい、再度、四年間学び卒業し、プロになった」と、嬉しそうに言う。今回、北九州楽団を指揮することになった。
 駐車場が混雑し、四十分も待たされ、開始十分前に芸術劇場に入った。三階席まで満員で、夫婦で行ったが別々に座った。後部の入り口付近で何人も席を捜している。「本日は満席の為、座れない方は、ロビーのテレビで鑑賞してください」とアナウンス。生演奏を聴きに来たのにテレビ画面で見ろとは、「金を払ってわざわざ小倉迄きたのに」、と腹が立つことだろう。
指揮台にT氏の息子「竹内健人」氏が、右手に指揮棒を持ち両手を大きく上に振り上げ、振り下ろす。シベリウスの「フィンラディア」が始まる。静かな北欧の森の雰囲気から、徐々に、全楽器が音を上げていく。一挙に戦いが始まったような大演奏である。敵を撃退し、やがて穏やかな平和が訪れるような調べとなる。
 アマチュア演奏者に対し満場の拍手が鳴りやまない。指揮者は堂々と楽団を指揮し無事に演奏を乗り切った。「この世界で成功できるのだろうか」、と知人のT氏は親としては心配となり、息子の指揮する交響曲の発表会に、関東まで「追っかけ」で聴きに行くという。又来年、彼が小倉の楽団を指揮することになったなら、私は行ってみたいと思っている。
第三週の土曜日は、遠賀町浅木にある老人ホームで開催される「ポコポコ」という私の所属する七人グループが南米民族音楽のフォルクローレを演奏する。無料奉仕で高齢者四十人の観客が見守る。
 三つ音楽会の中で、比較するにはおこがましいが、極小の演奏会である銭勘定しても雲泥の差である。学校の教材で使う「リコーダー」に似た「ケーナ」という竹製の縦笛を、二人がソプラノの部分を吹き、私ともう一人がアルトの部分を吹く。伴奏はギターとチャランゴという弦楽器に、ボンゴという打楽器である。ペルーやボリビアの人が演奏し歌い踊ったものが、全世界へ広がった。有名な曲は「コンドルは飛んでいく」である。私は、この曲が好きになりケーナを習い始めたのが二十年前である。
 我々は、毎週一回、土曜に二時間ほど公民館に集まり練習する。グループを結成し十年以上になるが、コロナ禍でイベントが無くなり、久々の演奏会である。
 四十人の高齢者の男女とスタッフは、速いテンポの曲に、手拍子をしてくれる。皆さんが、このひと時を楽しんでみようという態度を感じる。中には「はい、はい、はい」と民謡のように合いの手を大声で入れる女性もいる。聞く人も演奏に加わり、全員の心が一つになったような気がした。悲しい曲調のものに、涙を流した人もいた。自分の身と重ね合わせ、感情が高まったのかもしれない。
 こんなに会場が盛り上がるのならば、また呼んで貰いたいと私は思った。終った後、控室に管理者が来て、賞めてくれ「また来て下さい。みんな喜んでいました。七月に別の場所に、老人介護施設をオープンします、その時は御願いします」とおっしゃる。七人が声を揃えて「御願いします」と答えた。次は、どん曲を選び練習しようか、いまから楽しみにしている。目標があると、練習にも気合が入ってくる。
 私たちが人前で演奏するのは、出しゃばりだからではない。自慢したいからではない。
練習は何のためにするのか考えてみた。「未熟な技術を正確にやりたい。上手くなりたい」と、まずは思い練習に励む。更に、最近は、皆で演奏すること自体が、充実感があり、好きになっている。練習を積めば積むほど、皆と私の正確さも上がってくるし、「ハーモニー」が聞えてくる。みんなの演奏と心がマッチしたとき、自画自賛状態になり感動する。
 私は、音楽が専門のS先生に一週間に三十分ほど音楽を習っている。私が気に入った曲を録音し、先生の所へ行く。テープを進めたり、止めたりして、先生に五線譜の上に音符を書いてもらう。四分間くらいの曲。最近では、イオン中間にオープンした「無印良品」の店内にかかるBGMで、オランダの曲が好きになった。先生は、「メロディー」を採譜し、セカンドパートの音符まで作ってくれる。次にギターのコード(和音)とボンボのたたき方を記してくれる。
 この楽譜を元に、我々グループは練習に励む。三か月もすると、それぞれ持ち場の演奏が出来上がる。七人で演奏するとき、「二つ以上の高さの違う音が同時に鳴って、それが一つの音に聞こえる」和音というものになって音楽を、体全体に感じる。しびれる程素晴らしいハーモニー。自分たちで演奏し、自分たちで和音を感じる。音楽のだいご味である。
 今回は三つのグループの音楽を聴くことが出来た。大、中、極小の差はあるけれど、ハーモニーを、それぞれの機会に、存分に楽しむことができた。心をいやししてくれる音楽、三つの音楽会のことが、思い出深く残っている。
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