第72話

文字数 1,547文字

 慎重にドアを開けると、幸いチェーンは掛けられておらず、水嶋は「失礼します」と声を掛けながら中に入った。
 その途端、美穂子の予感が的中していたことを思い知らされる。
 血の匂いが鼻腔を突き、ハンドバッグの置かれたダイニングテーブルの向こう側に、女性らしき人物が横たわっている。確かめてみると神林公子で間違いなく、頭から血を流しながら、うつぶせの状態で床に倒れていた。
 周辺には、血液がべったりと付着した鉄アレイが転がっていて、これが凶器だと推定される。その鉄アレイには見覚えがあり、神林のマンションで見たものと同じ物のように感じられた。それを美穂子に伝えると、彼女も同様に、うろ覚えだが似ているように思うと返事をした。
 改めて公子に向き直り、恐る恐る腕を取るが、脈を取るまでもなかった。若干の温かみは感じるものの、既に冷たくなりだしていて、すぐに腕を離した
「……神林が殺したんだ。間違いない」そう口を開かずにいられなかった。
 公子のわきにはスマートフォンが転がっていて、拾いあげて中を開く。ロックはかかっていなかったが、メールや着信履歴は消されていて、それらの情報は得られなかった。これも神林の仕業に違いない。
 テーブルに置いてあったハンドバッグの中を探してみると、この部屋のものと思われる鍵が二本出てきた。志穂の部屋と同様、複製は出来ないタイプなので、合鍵の存在は否定せねばならない。
「警察に通報しましょう。今なら神林も遠くに行っていない筈よ」美穂子はバッグから自分のスマートフォンを取り出す。だが、水嶋はそれを制した。
「駄目だ。今、そんな事をすれば、俺たちが疑われるぞ。いくら殺していないとはいえ、住居不法侵入なのは間違いない。それに神林の事を話したところで、彼がやったという証拠は、きっと残されていないだろう」
「でも、鉄アレイは彼の物に間違いないんでしょう? だったら……」
「無駄だよ。こんなものはどこのスポーツ店でも売っている。仮に神林の物だと判明したとしても、公子が勝手に持っていったと証言したら、警察は信じるしかないだろうな」
 それでも美穂子は食い下がる。
「でも、姉との関係を話せば、きっと警察も判ってくれるわ。神林の寝室にあった写真の事もあるし」
「そんなものは、とっくに処分しているに決まっている。それに俺たちが写真のことを証言したとしても、どうやって知り得たのか、説明しなくちゃならないだろう? 素直にピッキングして家探ししましたって言うつもりかい?」
 それでも構わないと迫ってきたが、やはり通報すべきではないとの主張を曲げなかった。
「それなら姉の部屋の名義を調べれば、きっと神林の名前が出てくるはずよ」
「そんな事は向こうも想定済みだろうし、警察もとっくに調べているだろうな。それでも動かないところを見ると、おそらくお姉さん本人の名義で契約している考えるべきだ」美穂子をしっかりと見据えたまま、真剣な顔で言った。「それに相手はテレポーテーションの持ち主だ。逮捕しようとしても、直ぐに逃亡されるのがオチだ」
「じゃあ、どうしたらいいの? 神林を野放しにしておくつもり? このまま泣き寝入りするしかないっていうの? あんまりよ!」その瞳は涙で滲んでいて、辛い気持ちが痛いほど伝わってくる。
 水嶋としても、このまま神林を放っておくつもりはない。だがこれといった対処法があるわけでもなかった。
「とにかく、今はこの部屋から離れよう。警察には公衆電話から匿名で通報すればいい。それから今後について考えようじゃないか」
 その意見に渋々納得したらしく、美穂子は顔を伏せながら「判ったわ」と小声で言った。
 二人は指紋や髪の毛などの痕跡を残さないよう、慎重に部屋を出ると、足早にポインセチアから離れた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み