第58話

文字数 2,624文字

 翌日の金曜日は朝からネットを探っただけで、これといってやることが無かった。いや、やる気が

と表現したほうが正しいのかもしれない。森崎の死体を発見したことや、その後の事情聴取で、思いのほか神経をやられたらしい。いろいろありすぎただけに、自覚がなかったに過ぎないのだ。
 気を紛らわせるため、山積みになったCDを聴きながら、日がな一日を過ごす。夕日が沈みかけたころ、近所にあるスーパーへ食料を買い出しに出ると、帰り際に美穂子からメールが届いた。
 『今夜は店に来るんでしょう? 実は会って欲しい人がいるの。詳しくは後で話すから、必ず来て。待っているわ』その後にハートマークが並んでいる。まるで勧誘のメールだ。まだそれほど勤務していないのに、ホステス稼業がすっかり板についてきたようである。かつて感じた、過去にお水関係の仕事をしていたのかもしれないという疑惑が再燃した。

 まだ、気だるさの残る体を奮い立たせながらゴールドヘヴンへ出向くと、そこには意外な人物がボックスシートに座っていた。屋良瀬警察署の村崎警部補と黒木巡査部長のコンビである。さっきのメールは、彼らを指しているのだと直ぐに察しが付いた。同じ席には美穂子が腰を下ろしていて、二人の相手をしている。グラスには茶色い液体が注がれていて、二人ともウイスキーを飲んでいるようだった。
 彼らは水嶋を見つけるなり顔がほころび、村崎の方が、「よう」と右手を上げてきた。昨日の取り調べでは、この店について何も話していない。どうやって知り得たのか疑問を持ったが、考えてみれば不思議でも何でもなかった。昨日も感じた通り、幸田志穂の事件を調査していたはずの村崎が、森村の事件に対して取り調べを行ったわけだし、森村や志穂の経歴をたどれば、ここに行きついても不自然ではなかった。
 それに志穂の事件があった当日には、すでに警察が訪ねてきているわけだし、彼らが本気を出せば、それくらいは朝飯前ということだ。
 だったら志穂の件も早く犯人を挙げろよと、文句の一つも垂れそうになった。
「よくここが判りましたね。警部さん」村崎の対面上に腰を下ろした水嶋は、おしぼりで手を拭きながらあいさつ代わりに言う。
「警部補です」村崎ははっきりした声で訂正してきた。
「それは失礼しました、村崎警部補」水嶋はニヤつき顔で敬礼した。もちろん承知した上での発言だったが、彼は気づいていないらしく、
「警部と警部補は響きがよく似てますから、しょっちゅう間違えられるんですよ。慣れてますから気にしないでください」村崎は急に貧乏ゆすりを始めた。慣れているといいながら、内心は気に障ったに違いない。「でもあなたがここの常連とは知りませんでした。昨日はそんな事、ひと言も言ってなかったですからね」氷を大げさに鳴らしながらグラスを傾けた。
 訊かれませんでしたからと平然と答え、森村殺害の容疑者は浮上しましたかと、水嶋は世間話でもするかのように質問した。
「捜査の事は話せません。あなたもご存知でしょう?」あまりに澄ました顔で口にするので、試しに偶然を装って左手に触れてみた。浮かんだのは『わからない』で、今のところ、それらしき人物がいないということが判明した。だから、彼らもわざわざゴールドヘヴンにまで足を運んだに違いない。水嶋は「仕事中に酒を飲んでもいいんですか」とけん制したが、村崎はプライベートだと答えた。
 それを見ていた美穂子は、急に甲相占いを話題に挙げる。
「刑事さん。水嶋さんは手の甲で占うんですって。それがよく当たるのよ。私たちもみんな彼のファンよ。常連を抜きにしてもね」彼女は親しげに笑顔を振りまく。グラスの扱いや煙草の処理も手慣れていて、とても新人とは思えない貫禄をみせていた。
 甲相占いについては、昨日、水嶋から散々聞かされていたので、刑事たちはあからさまに顔をしかめる。
「よろしければ占って差し上げましょうか? もちろんプライベートですから、料金は頂きません」
 美穂子のアシストもあってか、村崎は、そこまで言うのならと、黒木巡査部長に顎で指示を出した。黒木はわかりましたとゆっくりと両手を差し出した。
「では、何を占いましょうか?」水嶋は占いモードに入った。
 仕事運をお願いしますと申し出たので、水嶋は黒木の左手を取り、浮き出る静脈をじろじろと眺める。
 『しょうしん』という言葉が現れたので、「なるほど。あなたは事件より出世の方が大事なのですね」と毅然として言いのけた。
 まさかという顔になり、黒木はあからさまに怯えた。水嶋は、基本をしっかり、などと子ども騙しのような、無難なアドバイスを施した。
 続けざまに「幸田志穂の転落事件については、本当に他殺の可能性はないのですか?」と訊いてみると、首を振りつつ、彼の心は『そうともか』だった。ここは『そうとも限らない』と解釈するべきだろう。もっと事件の事について確認したいことが山ほどあったが、あまりしつこく訊いてばかりでは、怪しまれると。今度は隣の村崎に目標を変えることにした。
「じゃあ、俺たちが、いつ事件を解決するか、見てくれないか?」さすがは警部補である。自分のことしか考えない、浮ついた巡査部長とは格が違った。今度は右手の甲を握りながら、「あなたはどう思いますか?」と逆に質問した。当然、返事は無かったが、浮かんだのは『こんしゅうじゅ』。きっと今週中には解決したいと願っているのだろう。
 だったら希望に沿えるべく、
「今週中には解決しそうです。いや、もしかすると、もっと早いかもしれない」後半部分は希望的憶測であり、とくに根拠はない。
「そうですか。気休めでもそう言ってもらえると、有難いものだ」
「気休めではなく、相に出ているのです」
 その後、村崎自身について、あれこれ言い当てたのち、改めて志穂の事件の話題を持ちだした。
「そういえば、神林について何かわかりましたか?」水嶋の質問に「さあね」とはぐらかし、手を引っ込めると、村崎は煙草に火をつけた。これ以上はもう心を読むことが出来ないと観念した水嶋も煙草をくわえる。
 頭に並んだ文字は『ありばいな』と『くろかもし』だった。つまり『アリバイはない』と『クロかもしれない』と推測できる。やはり、なんだかんだ言っても警察は神林を重要参考人として睨んでいるようだった。さすがに顔色一つ変えなかったが、貧乏ゆすりが激しくなったのを水嶋は見逃さなかった。
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