第33話

文字数 1,974文字

 やがてエレベーターが静止し、チャイムのあとに扉がすっと開くと、視界の開けたホールに出た。
 神林の部屋はすぐに見つかった。フロアには三部屋しかないので、迷うことは無かったのだ。
 ためらいがちにチャイムを鳴らすと、途端にドアが開く。戸惑いながらも水嶋は一礼をした。美穂子は軽く会釈した後で、まるで友達の家へ来たみたいに、ズケズケとした態度で足を踏み入れていた。余程、肝が据わっているとみえる。
 話の通り出掛ける寸前だったらしく、上下とも紺のスーツ姿で、朱色のネクタイを締めている。三日前に感じたチンピラじみた心象とは違い、今日の彼は、やり手のビジネスマンへと様変わりしていた。改めて観察してみると、四十代半ばとは思えないほどの若々しい肌艶で、スーツ越しにもはっきりと確認できる隆々の筋肉から、普段から相当鍛えているのだろうと推測できた。神林は笑顔で出迎えてくれたが、フチなしの細い眼鏡の奥には、隙のない鋭い目つきを覗かせている。気後れしてためらいがちの水嶋だったが、美穂子の方はというと、堂々とした立ち振る舞いながら「お時間を取っていただき、ありがとうございます」と、深々とお辞儀をした。慌てて水嶋もそれに続く。
 一瞬、神林の表情が曇りを見せた。きっと美穂子の顔を見て、姉の志穂を思い出したに違いない。その推理が間違いでないことは直ぐに証明された。
「……君はさっきゴールドヘヴンに勤めていると言ったな。もしかして幸田志穂の妹さんかな?」
 その質問を想定していたかのように、美穂子はさらりと否定した。
「志垣店長にも同じことを言われました。何でも、亡くなったチーママにそっくりなんですってね。私も驚きましたわ。そんなに似ていますか? 志穂ママと」
「そっくりなんてもんじゃない。瓜二つだ。姉妹でないとすれば、すごい偶然だな」神林は自分の顎を撫でながら、感嘆の声を漏らす。「気に入ったよ。これからも、しっかりやってくれたまえ」
 どうやら信じてくれたようで、立ち話もなんだからとリビングへ促された。
 そこは、二十畳はありそうな目も眩むほどの空間が広がり、毛足の長い、まだら模様の絨毯が敷かれている。中央には十人ほど座れそうなソファーセットが置かれ、壁には額に入れられた絵画や飾り棚が並び、七十インチをゆうに越えるほどの大型テレビが鎮座していた。部屋の隅にはエキスパンダーや鉄アレイが転がっていて、神林は「テレビを見ながらトレーニングをするのが日課なんだ」と自慢げに語った。驚くことに天井からはシャンデリアがぶら下げられていて、七色の光を放っている。
 テレビでは目にした事があったが、本物の豪邸は初めてで、思わず後ずさりしてしまいそうになった。だが、心なしか生ごみの匂いが鼻をかすめ、妻の公子とは別居中だというネット上の噂は真実のように思えた。
 ソファーに座った神林が「どうぞ」と促すと、二人して対面に腰を下ろした。彼は照れ臭そうに頭を掻きながら、
「あいにく女房は出掛けていてね。満足なおもてなしなんて期待しないでくれたまえ。それにさっきも言った通り、時間がないから要件だけを手短に説明してくれないか? 確か未公開株の件だったな」
 神妙な手つきで鞄を開けると、今朝、早急に仕上げたばかりの書類を手渡した。それは株取引の偽造ファイルだった。ドラマで見た詐欺師の受け売りの台詞を織り交ぜながら、セールスマンを気取る水嶋は、まことしやかに株の話を行った。相手は実業家だが、意外なことに、株の世界には疎いらしく、口から出まかせの情報に、予想以上の食いつきを見せた。
 さらに水嶋を驚かせたのは、神林が思いのほか乗り気で、いきなり一千万円の投資を切り出されたことだ。まさかの高額に戸惑いつつも、水嶋が勧めるまま書類に捺印をし、神林は、後日、指定された口座に振り込む確約をした。もちろん水嶋の口座に、である。
 もし、詐欺がバレたところで訴えたりはしないだろうと水嶋は踏んでいた。匿名のネット記事によると、神林は多額の脱税をしていて、警察に目を付けられたくないのだろう。金持ちには、こういった金銭的スキャンダルの噂が絶えない。だが、眉唾にしては、あまりの豪華な部屋の作りに、脱税の話も、信じられなくもなかった。
 書類を受け取りながら、さり気なく手に触れると、『しめしめ』と浮かんだ。マンガじゃあるまいし、本当に、しめしめなどと思う人が実在するとは。人間とは、思った以上に単純な生物なのかもしれない。
 とにかくこれで、神林がこちらを信じ切っていると確信した。これなら、あと二千万円ほど吹っ掛けてもよかったかな、との考えが頭をよぎる。だが、あまり調子に乗ると、今度は命が危ない。まだ断定はできないが、相手は人殺しなのだから、もし、詐欺行為が露見すれば、それくらいはしかねないだろう。
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