第86話
文字数 1,928文字
激しい振動を憶えて目を開けると、そこは車の後部座席だった。
どうやら気絶していたようだった。
まだ生きていることを実感し、胸を撫でおろすと、水嶋は途端に咳を繰り返した。
「良かった。気が付いたのね」
助手席に座る美穂子が、振り向きざまに弾んだ声を上げ、缶に入ったスポーツ飲料を渡してくれた。
プルトップを空けて半分ほど飲み干すと、探偵がハンドルを握りながら、「まだお前にくたばってもらうわけにはいかない。少なくとも報酬を受け取るまではな」と軽口をたたいた。
思い返してみれば、どうしても納得がいかない。頭に残る最後の記憶は、神林に喉を締め付けられていて、このまま死を迎えるのだと諦めたことだった。あれから何が起こったのだろうと思考を巡らすが、なぜ助かったのか、思い当たるフシはなかった。
頭が混乱して状況を呑み込めずにいると、探偵は事の経緯を語りだした。
「……あの時、俺は車の中で倉庫の様子をうかがっていたんだが、突然銃声が聞こえてきたんで、中の様子を探るために車から降りようとしたんだ。そしたら、人相の良くない二人の男たちが、続けざまに倉庫から出てきやがった。一人は背が高くて、右腕を押さえていたな。後から出てきた太っちょのもう一人は、左膝を庇いながら、顔面蒼白だった。二人とも少し先に停めてあった黒塗りの車に乗り込むと、何処かに消えていった。通報しようかとも思ったが、それよりあんたの事が心配で、倉庫のドアを開けて入ってみた。……すると奥まったところに幸田さんが倒れていた。そしてあんたが神林に首を絞められている光景が目に入ったってわけさ」
「なるほど、そこで君が助けてくれたんだな。感謝するよ。お礼の言葉もない」
だが、探偵の返事は水嶋の予想とは違っていた。
「いや、俺は何もしてはいない。もちろん助けようとしたけど、情けないことに足がすくんじまってな。……悪く思うなよ。探偵としては失格かもしれんが、命あっての物(もの)種(たね)だからな」
美穂子は黙ったまま、何も語ろうとはしない。おそらく彼女も気絶していたに違いなく、その時の状況は把握しきれていないのだろう。
「じゃあ、どうして俺は助かった? あなたじゃなかったら、誰が僕のピンチを救ってくれたんだ?」
すると探偵は左手で頭を掻くと、ためらいがちに口を開き、「自分にも、未だに信じられない話なんだが」と、話を進める。「突然、あいつが手を放して、胸を押さえながら苦しみ出したんだ。そして膝から崩れ落ち、そのままうつぶせにぶっ倒れた。すぐさま駆け寄ってみたが、既に呼吸は止まっていた……俺の見立てでは、心臓麻痺に間違いないと思う。きっと興奮しすぎたのが原因さ。もしかしたら心臓の疾患を抱えていたのかもな」
意外な結末に、唖然とせずにはいられない。あんなに元気満々だった神林が心臓麻痺だなんて。高野内の言う通り興奮しすぎたのかもしれないが、すぐには信じられないのもまた事実だった。
水嶋は何か意見を言おうとしたが、一向に考えがまとまらず、今度は美穂子が言葉を吐いた。
「……私が目を覚ました時には、もうあいつは倒れていて、その時のことは何も記憶がないの。高野内さんが心配して駆け寄ってくれたけど、まずはあなたが心配で……」そこで一旦言葉を切った後、「高野内さんの言う通り、神林はもう息をしていなかったわ。私も心臓麻痺だと思う」
その後、意識を失ったままの水嶋を何度も揺り起こそうとしたが、意識は戻らず、誰かに見つかる前に逃走しなければならないと、急遽、この車に運んだとの話だった。
交差点に差し掛かり、赤信号で車を停止させると、探偵はポケットからキーホルダーを取り出して、水嶋に投げてよこした。そこには鍵が二つ付けられている。
「奴のポケットに入っていた。一つは自宅用で、もう一つは、おそらく幸田志穂の部屋のものだろう」
確かに、二本とも家のキーのように見える。もし、本当に志穂の部屋の鍵だとすれば、二人の関係を証明する決定的な証拠になるだろう。志穂を殺したのは、やはり神林と考えるのが妥当だ。
だが、どうしても納得がいかないことがあった。首を絞められたときに浮かんだ言葉だ。あの時はそれどころではなく、抵抗するのに必死だった。
だが、いざ思い返してみると、確かにこの二つだったのは間違いない。
『おれじゃない』、そして『きっとあい』。
つまり、神林は、俺じゃないと自分が犯人であることを否定し、なおかつ『きっとあい』は『きっと、あいつが……』と思っていたに違いない。
このことを美穂子に告げようとしたが、高野内の前ではなんとなく話しづらい。二人きりになって時に打ち明けることにして、今は黙っておくことにした。
どうやら気絶していたようだった。
まだ生きていることを実感し、胸を撫でおろすと、水嶋は途端に咳を繰り返した。
「良かった。気が付いたのね」
助手席に座る美穂子が、振り向きざまに弾んだ声を上げ、缶に入ったスポーツ飲料を渡してくれた。
プルトップを空けて半分ほど飲み干すと、探偵がハンドルを握りながら、「まだお前にくたばってもらうわけにはいかない。少なくとも報酬を受け取るまではな」と軽口をたたいた。
思い返してみれば、どうしても納得がいかない。頭に残る最後の記憶は、神林に喉を締め付けられていて、このまま死を迎えるのだと諦めたことだった。あれから何が起こったのだろうと思考を巡らすが、なぜ助かったのか、思い当たるフシはなかった。
頭が混乱して状況を呑み込めずにいると、探偵は事の経緯を語りだした。
「……あの時、俺は車の中で倉庫の様子をうかがっていたんだが、突然銃声が聞こえてきたんで、中の様子を探るために車から降りようとしたんだ。そしたら、人相の良くない二人の男たちが、続けざまに倉庫から出てきやがった。一人は背が高くて、右腕を押さえていたな。後から出てきた太っちょのもう一人は、左膝を庇いながら、顔面蒼白だった。二人とも少し先に停めてあった黒塗りの車に乗り込むと、何処かに消えていった。通報しようかとも思ったが、それよりあんたの事が心配で、倉庫のドアを開けて入ってみた。……すると奥まったところに幸田さんが倒れていた。そしてあんたが神林に首を絞められている光景が目に入ったってわけさ」
「なるほど、そこで君が助けてくれたんだな。感謝するよ。お礼の言葉もない」
だが、探偵の返事は水嶋の予想とは違っていた。
「いや、俺は何もしてはいない。もちろん助けようとしたけど、情けないことに足がすくんじまってな。……悪く思うなよ。探偵としては失格かもしれんが、命あっての物(もの)種(たね)だからな」
美穂子は黙ったまま、何も語ろうとはしない。おそらく彼女も気絶していたに違いなく、その時の状況は把握しきれていないのだろう。
「じゃあ、どうして俺は助かった? あなたじゃなかったら、誰が僕のピンチを救ってくれたんだ?」
すると探偵は左手で頭を掻くと、ためらいがちに口を開き、「自分にも、未だに信じられない話なんだが」と、話を進める。「突然、あいつが手を放して、胸を押さえながら苦しみ出したんだ。そして膝から崩れ落ち、そのままうつぶせにぶっ倒れた。すぐさま駆け寄ってみたが、既に呼吸は止まっていた……俺の見立てでは、心臓麻痺に間違いないと思う。きっと興奮しすぎたのが原因さ。もしかしたら心臓の疾患を抱えていたのかもな」
意外な結末に、唖然とせずにはいられない。あんなに元気満々だった神林が心臓麻痺だなんて。高野内の言う通り興奮しすぎたのかもしれないが、すぐには信じられないのもまた事実だった。
水嶋は何か意見を言おうとしたが、一向に考えがまとまらず、今度は美穂子が言葉を吐いた。
「……私が目を覚ました時には、もうあいつは倒れていて、その時のことは何も記憶がないの。高野内さんが心配して駆け寄ってくれたけど、まずはあなたが心配で……」そこで一旦言葉を切った後、「高野内さんの言う通り、神林はもう息をしていなかったわ。私も心臓麻痺だと思う」
その後、意識を失ったままの水嶋を何度も揺り起こそうとしたが、意識は戻らず、誰かに見つかる前に逃走しなければならないと、急遽、この車に運んだとの話だった。
交差点に差し掛かり、赤信号で車を停止させると、探偵はポケットからキーホルダーを取り出して、水嶋に投げてよこした。そこには鍵が二つ付けられている。
「奴のポケットに入っていた。一つは自宅用で、もう一つは、おそらく幸田志穂の部屋のものだろう」
確かに、二本とも家のキーのように見える。もし、本当に志穂の部屋の鍵だとすれば、二人の関係を証明する決定的な証拠になるだろう。志穂を殺したのは、やはり神林と考えるのが妥当だ。
だが、どうしても納得がいかないことがあった。首を絞められたときに浮かんだ言葉だ。あの時はそれどころではなく、抵抗するのに必死だった。
だが、いざ思い返してみると、確かにこの二つだったのは間違いない。
『おれじゃない』、そして『きっとあい』。
つまり、神林は、俺じゃないと自分が犯人であることを否定し、なおかつ『きっとあい』は『きっと、あいつが……』と思っていたに違いない。
このことを美穂子に告げようとしたが、高野内の前ではなんとなく話しづらい。二人きりになって時に打ち明けることにして、今は黙っておくことにした。