第34話

文字数 973文字

 制限時間の十分はとっくに過ぎていたが、神林が出掛ける気配はなかった。人と会うのは事実なのかもしれないが、約束はもっと後で、インターホン越しに断る口実を述べただけに過ぎないのでは、と推論づけた。
 その後、適当に世間話をしたところで、美穂子が本題を切り出す。
「そういえば、社長は志穂ママと親しかったんですか?」
 何気ない風に訊いたようだが、一瞬にして神林の目の色が変わった。それでもすぐに顔を崩し、
「まあな。大事な商売道具だから、それなりに可愛がっていたさ。志穂は確かに良い女だったが、あのレベルのホステスでよければ、他にいくらでもいる。……何を考えているかは知らないが、ゲスな想像だけは止めてもらおうかな、このはくん」
 だが、言葉通りに受け取るわけにはいかない。ここはテレパシーの出番だと右手を伸ばす。いささか遅い気もするが、契約完了の握手という訳だ。美穂子も固唾を飲みながら、神林の動向を見守っている様子だった。
 だが、その前にと、神林は葉巻を吸い始めた。
 最悪のタイミングである。
 水嶋も勧められたが、丁重に断りを入れる。
 やがて白い煙が漂い始め、鼻の奥を刺激した。一応、流れで握手をしたものの、やはり何も浮かんでは来ず、代わりに美穂子の冷たい視線が突き刺さった。
 結局、一番知りたかった事件の関与についての情報を得ることができず、神林宅を後にしようと立ち上がったその時だった。

 ミャー。

 どこからか猫の鳴き声がした。水嶋は鳥肌が立ち、慌てて後退りをする。猫アレルギーの彼は顔中から汗が噴き出すのを感じると、つけ髭が取れたような気がして顔に手を当てた。だが、どうやら取れていないようで、そっと胸をなでおろす。
 すると、一匹の黒猫が奥の廊下から歩み出てきて、美穂子にすり寄ってきた。美穂子は満面の笑みを浮かべ、黒猫を抱きかかえる。
「いや、驚かせてすまないね。うちの飼い猫でミーコというんだ。妻のだから品種は知らないが、血統書付きなのは間違いない」神林はミーコという名の黒猫を美穂子から受け取ると、「最初は猫なんてまったく興味がなかったんだが、面倒を見ているうちに段々可愛く思えるようになってな。今では立派な家族の一員だ」
 ミーコを撫でながら、神林は微笑みを浮かべている。その何気ない仕草の裏で、美穂子の姉を手にかけたと思うと、背中の芯が震えた。
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