第92話

文字数 1,489文字

『はがき』

 ソファーにやよいを寝かせると、周囲の目を気にしながら、彼女のハンドバッグを手繰り寄せた。
 中には財布やメイク道具と共に一枚のハガキがあった。あて名は『坂原藍子』。坂原とはやよいの名字に違いない。消印は今からひと月ほど前のものだった。
 ハガキを裏返すと、縦書きの文章の末尾に書かれた『幸田』の文字が最初に飛び込んできた。書かれた内容を文頭から確認しようとした矢先、急に何かに引っ張られるのを感じ、ハガキが手から離れた。突風が吹いたのかと瞬時に思ったが、そうでないことはすぐに察した。ここは店の中であり、ハガキが飛ぶほどの強烈な風など起こりえないからだ。
 舞い飛ぶハガキを掴もうと反射的に手を伸ばすが、ほんのわずかの差で届かない。立ち上がって追いかけるものの、ハガキは猛スピードで出口に向かい、ちょうど開いた自動ドアから外の闇へと吸い込まれていった。

 それでもあきらめきれない水嶋は、消えたハガキを求めて外に出ると、周辺をしばらく探索してみた。
 辺りをひと通り探し回ったものの、ついぞ見つけるまでには至らなかった。
 肩を落とし、ヴィオレッタへきびすを返そうとしたその時、水嶋は一組のカップルとすれ違った。始めは誰だか判らなかったが、すぐに志垣店長と新人のすみれであると認識した。
 そういえば、一昨日もゴールドヘヴンにて、二人並んで仲睦まじそうにしていた。おそらく、ただならない関係であることは間違いないだろう。
 だが、どうしてこんなところに?
 偶然なのか必然なのか判らないまま、水嶋は声を掛けた。
「こんばんは、水嶋です。お二人とも今日はお休みなんですか?」
 すみれは明らかに動揺していたが、志垣のほうは頬ひとつ動かさず、毅然とした口調で口を開けた。
「いえ、彼女が気分が優れないというので、気分転換として一緒に散歩をしていました。従業員のケアも、店長の大切な仕事ですから」
「散歩? こんな時間にですか」時計の針は、午後十時辺りを指している。
「おかしいですか? ご存じの通り、ゴールドヘヴンは夜のお店ですから、昼間に散歩する方が却って不自然でしょう」
 だとしても、みやびの亡くなった店のすぐ近くにいるとは、さすがに不自然と思わざるを得ない。
「実は……」
 水嶋は、思い切ってみやびの件を話してみた。二人がどんな反応を見せるか、試したかったからだ。隠しておいたところで、どうせ明日には知ることになるだろうから、むしろ、その方が自然の流れといえた。
「えっ……そんな……」すみれは顔を伏せ、志垣の腕をぎゅっと掴む。それほど面識はないはずだが、同じ職場の先輩が今しがた死んでしまったことに、ショックを受けているにちがいない。
 一方、志垣は「本当ですか? まさか冗談じゃないでしょうね」と、水嶋の手を強く握ってきた。
 あまりの勢いに押され、水嶋は「も、もちろんです。もうすぐ救急車やパトカーも到着するはずです」と、たじろぎながら答えた。
『やっぱりそ』志垣から浮かんだメッセージだ。
 きっと、『やっぱりそうか』と思っているのだろう。つまり志垣は、みやびの死を予見していたと考えられる。
「それで、みやびは最後に何か言っていませんでしたか? もしくはあなたに何かをたくしたとか」
 急に鋭い質問が降り注ぎ、困惑した水嶋は、とっさに「別に……何も……」と返す。
「そうですか……あっ、すみません」と、彼は握ったままの手を離した。
 志垣は、そろそろ店に戻りますので、と残し、怯え顔のすみれを連れて、ゴールドヘヴンのある方へ消えた。
 その時、水嶋は見逃さなかった。去り際の志垣の頬が、微かに緩んだのを。
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