第69話

文字数 1,466文字

 しばらく風に当たったのち、水嶋はベランダを調べることにした。だが右奥にエアコンの室外機があるくらいで、後は何も置かれていない。念のためにコンクリートの床の部分を調べていると、美穂子が顔を出した。両の目は真っ赤に充血していたが、もう涙は乾いたらしく、ハンカチを差し出すまでもなかった。美穂子は手すりに両肘を乗せて、ため息交じりにぽつりと呟く。
「……きっと姉は、毎日この景色を眺めていたのね。……どんな気持ちだったのかしら」
 それは問いかけるというより、独り言のように感じた。
「たぶん、お姉さんは孤独だったと思うよ。いくら職場で慕われているとはいえ、心を許し、頼れる友人なんて誰もいなかったのかもしれないし、きっと神林にすがるしかなったんだろう。しかも相手は既婚者で、いくら恋しくても報われないのは判り切っていた――おそらく志穂さんの心は相当荒んでいたのかもしれないな」
「だから自殺したとでもいうの? 私に黙って? そんなのあり得ないわ。まさか、あなたまで自殺説を唱えるなんて、信じられない!」
 高揚して紅潮した顔を向け、美穂子は両眉を吊り上げながら、思い切り口を尖らせる。そんなつもりじゃないとなだめるも、不機嫌な態度は収まろうとはしなかった。
「……いいから話を聞いてくれ! そんなお姉さんだからこそ、油断が生じたのかもしれない。もし、公子さんが犯人だとしたら、そんな切ない女心の隙を突いたのかしれないだろう? 神林との別れ話を持ちだし、志穂さんを安心させた後なら、犯行も可能だったかもしれない。森村がどれだけ絡んでいるかは判らないが、争った跡が無いことから、二人が共謀して無理矢理突き落としたわけではないのは明らかだ。……おそらく、公子さんひとりの犯行とみて間違いはないだろう」
 美穂子の顔は少しだけ和らいだ。名残惜しそうに手すりから離れ、室内に戻っていく――かと思いきや、何かに気づいたのか、振り返りざまに手すりに身を乗り出し、下の方を指差した。
「あれって、やよいさんじゃないかしら?」
 慌てて下を覗き込むが、それらしき人物は見えなかった。
「間違いないわ。もう見えなくなったけど、あの後ろ姿はやよいさんよ……どうしてこのマンションに来たのかしら?」
 ここ数日間、やよいが店を休んでいるという話を聞かされると、美穂子は「ちょっと見てくるから、ここで待ってて」と言い残し、バッグを持ったまま玄関から出ていく。一緒に行こうかと言う暇さえなかった。
 仕方がないので、美穂子を待っている間に何か手がかりになるようなものが無いか、詮索するためにダイニングキッチンへ戻る。しゃれたデザインの冷蔵庫や電子レンジがまず目についた。あまり料理はしないらしく、食器は数えるほどしかない。しかし、調味料だけは必要以上に揃っている。バジルやナツメグといった香辛料のたぐいや、無添加の味噌や醤油。瓶に入った岩塩。さらには少し減ったバルサミコ酢や、半分ほどの量になっているタバスコの大瓶。それにほとんど使われていなさそうな高級オリーブオイルまで。もしかしたら、意外と料理好きなのかもしれない。
 もしかしたら、何かおいしそうなものが入っているかもと、期待に胸を膨らませながら、冷蔵庫の中を覗いてみた。
 が、中はビールや酎ハイ、それにワインなどのアルコールばかりで食材は全く無い。

 冷蔵庫を閉じて、今度は洗面台に向かう。
 そこには歯ブラシが数本並んでいて、中には男物もあった。他にも髭剃りやシェービングクリームが無造作に置かれ、神林のもので間違いないと確信する。
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