第32話

文字数 1,278文字

 一階のホールでインターホンの前に立つと、美穂子は神林の部屋番号を押すと、ややあって男性のくぐもった声が返ってきた。
 『どちら様ですか?』声の感じからして、神林で間違いない。
 明らかに不審がっている模様だ。無理もない。見ず知らずの女性が、いきなりアポなしで訪問しているのだ。警戒するなという方が無理な話である。
 美穂子は飛び切りの笑顔をレンズに向けた。
「突然で申し訳ございません。一昨日からゴールドヘヴンに勤めされてもらっています、“このは”といいます。本日はご挨拶に伺いました。志垣店長からお聞きになっていませんか?」
 もちろん、美穂子が神林宅を訪問する事など、志垣が知っているはずもなく、当然伝えている訳がない。それどころか、新人の情報すらも話していないだろう。神林はゴールドヘヴン以外にも、いくつもの店を経営しているのだから、入りたての、いちホステスの事など知る由もないだろう。断られても仕方がない状況といえた。
 『……そうかい。それはわざわざすまないな。だが、生憎、今日は約束があって、今から出かけなくてはならないんだ。悪いが出直してくれたまえ』
 半ば予想通りのつれない返事だった。だが、ここで怯むわけにはいかない。こんな事態も想定して切り札を用意していたのだ。
「……実は社長に合わせたい人がいるんです」
 『誰かね?』神林の声がさらに低くなった。
「インターホン越しには詳しく話せませんが、とっておきの儲け話があるんです。そこで今日はファイナンシャルアドバイザーをお連れしました」
 レンズの前に躍り出た水嶋は、緊張の面持ちを作り笑顔でカバーしながら会釈をした。
 甲の館で三日前に会ったばかりなので、顔を憶えられていたとしても不思議ではない。スーツを新調したり、変装したのは水嶋の正体を隠すためである。
「初めまして、ウォーターアイランド・ファイナンスの河本と言います。実は非公開の株式がございまして、今すぐ投資していただければ、二か月後には投資金額の一割以上の利益を約束いたします」あくまでも投資話はきっかけに過ぎず、詐欺を働く気持ちなんてさらさらなかった。何ともいかがわしい話だけに、如何にがめつい神林といえど、食いつくという保証はない。切り札といいつつ、必ずしもジョーカーが微笑むとは限らなかった。
 だが、神林は興味を持ったらしく、『十分だけなら』という条件付きで会話を終えると、数秒後に自動ドアが音もなく開いた。

 二人はホテルのようなロビーの前を、訝しがるコンシェルジュと目を合わせないように通り過ぎた。四基あるエレベーターのうち、ちょうど一階に降りていた左手前側のかごに乗り、四十四階のボタンを押す。
 途中一度も止まることなく、エレベーターが静かに昇っていく。ガラス張りのゴンドラの向こうでは、大地がどんどん遠ざかっていった。高所恐怖症の水嶋は、足の震えが止まらず、目を逸らさずにはいられない。一方、美穂子は怖がるどころか、ガラスに張り付くようにべったりとくっつき、ミニチュアのような街並みを眺めながら、子どものような声を挙げ、はしゃいでいた。
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