第56話

文字数 1,771文字

 しばしの沈黙のあと、美穂子が話を再開した。
「でも、その刑事さんの話だと、部屋には誰も侵入した形跡は無かったのよね? だとしたらやっぱり自殺じゃないかしら?」
 口に含んだコーヒーを吐き出しそうになり、思わずむせ返った。呼吸器官を刺激したのか、水嶋の咳はしばらく止まらない。先ほど水嶋自身が考えた自殺説だが、彼女もまた同じ思考だったことに、驚きと戸惑いが交互に襲ってきた。
「……おいおい、話をちゃんと聞いていなかったのか。森村は背中を刺されていたんだぞ。どうやって自殺したというんだ、君は」
 だが、美穂子は真面目な顔つきで、少なくとも冗談を言っているとは思えなかった。
「あくまでも可能性の問題よ。……例えば、たまたま布団の上に包丁が転がっていて、たまたま足を滑らせ、背中から倒れて突き刺さった。あまりの苦痛にもがき苦しんでいるうちに、うつ伏せになったところで息絶えて……」
「つまり、事故だったってことか? んなアホな」
 あまりのバカバカしさに、思わず笑みがこぼれる。だが美穂子は真剣なようで、ムスッと頬を膨らませる。
「じゃあ、ドライアイスを使ったのよ。ドライアイスに包丁を上向きの状態で凍らせ、天井に固定する。そしてその下に敷いた布団にうつぶせになる。しだいにドライアイスが溶けて、落下した包丁が背中に突き刺さった。……どう? これなら筋が通るでしょう」
 かなり強引な推理だが、ありえなくはない。
 水嶋は二杯目のコーヒーを淹れると、美穂子にもどうするか訊いた。だが、彼女はいらないと首を振った。
 焦げ蒸した芳醇な香りをたしなみつつ、強引な美穂子の推理に「で、仮にそうだとしても、どうしてわざわざそんな面倒くさい方法で自殺をする必要があったんだ? 警察が調べれば、いずれバレるだろうに」と、たしなめた。
 だが、美穂子は水嶋が予想もしなかった仮説をぶちまけた。
「……例えば、警察の捜査を神林に目を向けさせるのが目的だったんじゃないかしら? どうせ自殺するならいっそのこと派手に演出して、苦汁を舐めさせられた神林にひと泡吹かせたいと思って」
 なるほど。真偽はともかく、考えられない話ではない。仮に自殺と断定されても、関係者である神林に捜査の手が伸びる可能性は否定できない。そうすれば、やがて彼の脱税が発覚し、逮捕されるのは時間の問題だ。森崎としても、彼に一矢報いることができるだろう。
「でも、自殺とすれば、動機は何だと思う?」コーヒーをひと口だけ口に含んでから疑問を投げた。
「もし、公子さんと共謀して姉を殺したのであれば、良心の呵責に耐えられなかったとも考えられるわ」
 しかし、その説には疑問が残る。
「だとしたら、なぜ、あのタイミングなんだ? 本当に良心の呵責に耐えられなかったとしたら、もっと早い段階で命を絶ってもおかしくはない。まるで俺たちが、あの部屋に来るのを見計らって自殺したみたいじゃないか。それに、自殺にしては遺書も無かった。中途半端に開かれたカーテンにも疑問が残る。自殺しようとしたら、普通は誰にも見られたくないから、カーテンを閉めるだろう。もし、自殺の途中で誰かに見られでもしたら、たとえ鍵がかかっていたとしても、ガラスを割るなどして、未遂に終わるかもしれない。……どうもちぐはぐな印象なんだよな」ふうと、水嶋はため息をついた。
 コーヒーで頭を覚醒させたつもりだったが、それでも思考がまとまらない。
 気が付けば既に午後九時半。そろそろ空腹を感じてもいい頃だが、何故か食欲がわかなかった。
 お腹空いていないかと美穂子に問うと、ここに来る前にハンバーガーを食べてきたと返事が来た。水嶋もお昼はバーガーだったので、奇妙な一致に笑みを漏らした。
「ピザでも頼みましょうか? 私も頂くから」
 そうだった。美穂子は顔やスタイルに似合わず、大食いであったことをすっかり忘れていた。きっとハンバーガーも二個や三個では済まなかったのだろう。
 人の金をあてにして……と思わないでもないが、せっかくゴールドヘヴンを休んでまで心配してくれたのだから、それくらいは大目に見てやろうという気になった。
「それがいいかもな。……でも、ここに来てからピザなんて頼んだことないんだ。番号判るかい?」
 美穂子の目の色が変わり、私に任せて頂戴と、スマートフォンで検索し始める。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み