第66話

文字数 1,173文字

 美穂子の宿泊しているビジネスホテルへ向けてアクセルを吹かし、水嶋はハンドルを握りながら助手席に話しかける。
「神林の仕事部屋のデスクに、鍵のかかった引き出しがあった。もう少し時間があれば、君にピッキングをして開けてもらうつもりだったのに」
 残念がる水嶋に、「引き出しタイプの鍵は勉強していないから、無理かもしれないわ」と、慰めの言葉を掛けてきた。玄関の扉よりも、引き出しの方がよほど簡単そうに思える。が、ピッキングに関してほとんど無知の水嶋は、意外とそんなものかもしれないとも思い直した。
「そういえば、お姉さんの部屋は試したのか?」ピッキングの事を指している。
「いいえ、まだよ。だって昨日覚えたばかりで、さっきのが初挑戦だったんですもの……でも、うまくいって良かったわ。本当は自信が無かったのよ。姉の部屋も試したいんだけど、さすがに今日は疲れたわ。それに仕事も休むわけにはいかないしね。それとも、やり方を教えるから、あなたが自分で試してみる? ついでに公子さんの部屋もね」
 さすがにそれだけは勘弁と、拒否の姿勢を示した。美穂子は、さも簡単そうにしていたが、そうはいかないことは、一応心得ているつもりだった。ピッキングとはそんなに生易しいものではない。高度な技術と手先の器用さが求められる。不器用を自覚している水嶋には、到底、習得できそうもなかった。
 それに、仮にピッキングが出来るようになったとしても、志穂はともかく、公子夫人の部屋に一人で侵入するのは心臓に悪い。
 先ほど何度も寿命が縮む思いをしたことを考えると、身体の震えがぶり返してきた。

 翌日は土曜日だったので、甲の館を営業しなければならない。昨夜の疲れが抜けきれないようで、体の節々が痛くてしょうがなかった。まだ三十半ばだというのに、もう老化が始まったのかと思うと、落ち込まずにはいられない。
 考えてみれば引きこもっていた時から、運動どころか、外もロクに出歩かなかった。占い業を再開しても、基本はこの店舗兼自宅とスーパーやコンビニとの往復ばかり。それ以外の外出といえば、たまにCDショップやゲームショップに出掛けるくらいだった。あとパチンコか。
 それが美穂子と出会ったおかげで、頻繁に外出するようになった。ましてや泥棒まがいの事をするなんて思いもよらず、体よりむしろ神経の方が参っていた。
 それでも仕事を休むわけにはいかない。ただでさえ、先週の土曜日は午後の占いをキャンセルしているのだ。週にたった二日しかない営業日なのだから、体に鞭打ってでも、客の前に座らなければならなかった。

 朝食もとらず、最初の客が来るギリギリまで横になり、チャイムが鳴った途端、髪形を整えながら笑顔を作る。
 その日はいつものように仕事を淡々とこなし、眠たい目をこすりながら、何とか最後の客を送り出すことができた。
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