第103話

文字数 1,286文字

 降り出した雨が勢いを増し、ポインセチアの入り口にあるアーチを走りながらくぐったすぐ後だった。ドサッという重く鈍い響きが背中に聞こえてきた。
 戦慄が走りきびすを返す。
 駆け付けると、マンションのすぐ脇に女性と思わしき人物が倒れていた。遠目からでも一目で美穂子だと知れる。
 時計を見ると午前二時。くしくもそこは幸田志穂が落下したのと同じ場所で、時刻も一緒だった。偶然にしてはあまりに出来過ぎているので、わざとこの時間を狙ったのかもしれない。

 彼女は雨に打たれながら、うつ伏せ状態の格好で口から血を流している。すでにこときれているのは明白で、水嶋はそれ以上近づこうとはしなかった。

 気が付くと、既に数人もの見物人が周りを取り囲み、雨に打たれる冷たい亡骸に奇異の視線を送っている。中には携帯で写真を撮っている者さえいた。
 やめろ! これ以上、彼女をさらし者にしないでくれ!!
 そう叫びたかったが、茫然自失となった水嶋は、何もできないまま、重い足を引きずりながら、ポインセチアを離れた。

 傘もなく、雨に濡れながら街をさ迷い歩く。つい、煙草に手が伸びるが、既にぐっしょりと濡れている事に気が付いた。ケースごと握りつぶすと、そのまま路上に投げ捨てた。

 あてどなく歩き続け、コンビニを見かけると、濡れた体もいとわず、煙草とポケットウイスキーをカードで支払った。カードを持つ手が震え、おかしな恰好になったが、構うことはない。
 コンビニの軒下で、買ったばかりの煙草を灯し、思い切り煙を肺に入れると、ポケットウイスキーの栓を切った。
 ひと口飲んだだけで、体が熱くなる。途端に、どうしようもない黒煙が全身を覆い尽くした。
 彼女の苦しみは相当のものだったに違いない。あの時、強引にでも連れ出していれば、こんなことにはならなかったのだろう。
 彼女は誰とも相談できず、独りで悩み苦しみ、最悪の結果を招いてしまった。
 一番近くにいたはずなのに、どうして気づいてやれなかったのか。もっと早く、心の闇を見抜いてさえいれば、こんな悲劇は免れたに違いない。
 テレパシーなんて糞くらえだ。こんな邪魔な能力があったおかげで、彼女の苦悩を読み取ろうともせず、フィルターのかかった虚構の姿しか見えなかった。
 水嶋は自分を責め、涙がとめどなく流れた。

 煙草を半ケースほど空にしたのちに、タクシーを拾い、沈んだ胸のまま自分の部屋に戻った。
 つい半日ほど前、ここで彼女とラブシーンを演じたのに、今は同じ部屋とは思えぬほど冷たい風が吹きすさんでいる。

 灰色の溜息を吐き出しながらシャワーを浴びて、寝巻に着替えると、ポケットウイスキーを最期まで飲み切ってからベッドに入った。
 いろいろあり過ぎて、どうしようもなく疲れているはずなのに、まぶたを閉じても眠れそうになかった。彼女の優しい笑顔がまぶたの裏に浮かぶと、やりきれない気持ちが満ち溢れ、胸がえぐられる程の痛みを感じずにはいられない。切なさとは違う。恋愛感情でも憎しみでもない。何か、それを超越するような、言い知れない群青色の海に溺れる感覚から逃れることなど出来なかった……。
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