第113話

文字数 1,414文字

 遠ざかるレクサスを見送ると、水嶋はある場所に向かった。

 ゴールデンヘヴンのあるビルの前を通り過ぎて、ヴィオレッタの駐車場に車を停める。あの日以来、一度も来てはいない。当然、彼女を思い出すからだった。

 あの時ついたテーブルに座り、初めて頼んだカルボナーラを注文すると、タバスコに手を伸ばし、少しだけ多めに振りかけてみた。
 ひと口食べただけで涙が出てきたのは、きっとタバスコだけのせいではないのだろう。
 瓶をもう一度手にしてみると、志穂の部屋での光景を思い出す。きっかけは美穂子と最後に食べた立ち食い蕎麦だった。唐辛子で真っ赤に染まった彼女の蕎麦をみて、志穂の部屋でのことが連想されたからだ。
 美穂子と一緒にあの部屋を訪れた時、彼女は初めて入ったと言っていた。しかし、あの部屋のキッチンの棚にタバスコが置いてあり、しかも業務用の大型サイズで、中身も半分ほど減っていた。以前、美穂子は自分と違い、姉は辛いものが苦手だったと語っていた。タバスコを使ったのは神林かとも疑ってみたが、それもすぐに否定した。奴は、甲の館に志穂と来店した際、電話の相手に対して怒鳴りつけていた。その時、辛いものが得意ではないというニュアンスの言葉を発していた記憶が残っている。
 最初はその事には気づかずに、違和感を持っただけだったが、それが結び付いた時に、初めて美穂子を疑い始めたのだ……。

 この事は村崎にはまだ伝えてはいない。結局、会う機会が無かったからだ。
 タバスコの辛さに苦戦しながらも食べ進め、何とか完食することが出来た。美穂子であれば、あと二皿は軽くイケるだろうが、水嶋にはとても真似できそうもない。

 店を出ると、午後の陽射しが照り付けて、汗ばむくらいだった。ゴールドヘヴンまで歩いて数分だったので、最後の思い出として向かうことにした。例え閉店していたとしても、店先くらいは眼に焼き付けておきたかったからだ。

 ビルの手前までくると、階段の下で段ボール箱を抱えた志垣と出くわした。彼は驚いた顔で、いろいろ迷惑をおかけしましたと、頭を下げてきた。水嶋が何も訊かないうちに、閉店処理のために荷物を片付けていると、話し出してきた。
「オーナーも亡くなってしまいましたからね。しかも心臓麻痺とは。あれだけ体を鍛えていて、健康そうに見えましたけど、意外にもろかったのかも知れませんね……くわばら、くわばら」大げさに両手をさすり、頭を下ろす。
 不意に頭を挙げたと思うと、「そういえば、あなたの占いは見事でしたね。何か秘密でもあるんですか?」と顔を傾げた。
 この手の質問は、やたら訊かれる。だが、いつも「甲相とはそういうものです」と、適当にお茶を濁してきた。しかし、もう占いをやめて、まっとうな生活を送ろうと覚悟を決めていたので、この際だからと、ジョークめかして真実を伝えることにした。
「実はテレパシーを使っていたんです。占いと称して相手の皮膚に触れると、その人の考えていることが自然と頭に浮かんでくるんですよ」
 てっきり笑い飛ばされるのかと思いきや、志垣は感心したように深くうなずいた。
「羨ましいですね。自分なんか、いつも空気が読めずに空回りばかりしていますよ」と、微笑を浮かべる。
 もちろん、本気で羨ましがっているわけではないだろうが、真剣に話を聞く

をするのも、サービス業の鉄則である。水嶋の冗談めいた話に、いつものクセがつい出てしまったのだろうと解釈した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み