守りたいもの ・4
文字数 2,129文字
工事中の事務所の前に到着し、車を横付けした城崎さんは、すぐに降車して外から顔を覗かせる。
「ごめん、ちょっとだけ待っててくれる?」
「分かりました」
「この辺りはあまり治安が良くないから、車から出ないで待っててね」
「…はい」
幼い子どもに言いつけるように人差し指を立てたその仕草に、思わず笑ってしまいながらも頷いた。
︙
しばらくの間、パソコンのキーを叩くことを繰り返していたが、何気に手を止めて窓の外に視線を投じる。
少しだけ車のサイドウィンドウを下げれば、すっきりと濁りのない冷たい空気が顔に当たって、ヒュッと身が引き締まった。
「…、」
治安が良くないと言われた周辺一帯を、緊張気味に見澄ます。
古いビル街の一角であるこの場所は、工事途中の城崎さんの探偵事務所以外、どれも寂れた風情を醸し出しているように見えた。
どこから飛んできたのか、木枯らしに舞う敗れたポスターの切れ端。
年期を感じさせるそれぞれの店舗の店看板。
なんだか、それらが物珍しくて。
「——…」
けれど、車窓から見上げた青空はどこにいても同じ青さなんだな…と、ぼんやりとそんなことを思う。
「……、」
(ここは、前所長と城崎さんの絆が育まれた、思い入れのある場所なんだろうな…)
そんなことが脳裏をよぎったときには、自然と助手席のドアを開けて地面に足を降ろしていた。
「…、ん……」
舗装の一部が剥がれた歩道を踏みしめてゆっくりと伸びをしながら、広い冬空をまた仰ぎ見る。
城崎さんの事務所に視線を向けると真新しいカーテンウォールの窓に空の青が映えて、
工事も順調に進んでいるのが見て取れた。
「…お嬢さん」
「……、?」
背後からの人懐っこい声に振り返る。
「どうも、こんにちは」
見知らぬ若い男がニコニコしながら立っているその姿はどこか異質で。
その飄々としたどこか食えないような雰囲気はもとより、
くだけたように着こなしたスーツの胸元から覗くシャツは、普段あまり見ることのない奇抜な色柄のもので、それがまた違和感を増幅させていた。
「お嬢さん、モデルの経験とかってありますか?」
「…ないです、興味もないので」
「それはもったいない! 綺麗な方だから、今までにもスカウトの経験があるでしょう?」
「ありません。 別に普通のルックスですけど」
(いきなり何なんだ…)
ツンと顔を逸らして、舐められたくないという自己防衛の表れから、強がるようにコートのポケットに手を突っ込んで眉根を寄せる。
けれど、男は臆する様子もなく、『ハハハッ』と軽快な笑い声を立てて私の前に一歩踏み込んだ。
「良かったら、ちょっとお茶でもどうですか? 私どもはモデル事務所のものでして、モデルスカウトをやってるんですよ…、向こうのお店でゆっくり話しませんか?」
「お断りします」
「まあそう言わずに…、ちょっと話を聞くだけでも、ね?」
不自然にヘラヘラと笑いながら、男はぬっと手を伸ばし私の二の腕を掴んだ。
「…っ、やめてくださいっ、」
「まあ、そう言わずに」
「ッ…、」
(…怖い…っ)
男の顔に広がるギラリとした鈍色の翳りを目にして急速に背筋が凍る。
恐怖から逃れるために、必死で手を振り解こうとした刹那、
「…なにやってるの?」
男の後方から、端正な顔立ちを冷徹な色に染めた城崎さんが現れた。
「…チッ、連れがいたのか」
振り返り、城崎さんをチラッと見遣った男はいきなり態度を豹変させると、苛立ったように舌打ちをする。
「ああ、やっぱり君か…」
「は? なんだよアンタ」
「あれ? しばらく僕がここにいない間に、もう忘れちゃったの?」
「…はあ? 俺はアンタのことなんて…、」
「下っ端の君には、解像度の悪い画像でしか僕のこと知らされてなかったのかな?」
「……、」
「前にも、君のこと…蹴散らしたことあるんだけど」
「……! もしかして、おまえ…、」
「うん。思い出してくれた?」
「おまえは、あの探偵事務所の——」
男は城崎さんの工事中の事務所を高く指差すと、明らかに動揺し始めた。
「そうだよ、久しぶりだねー」
「おまえ…、あのときの火事に懲りて、居所失ってどっかへ消えちまってたんじゃねえのかよ!」
「ふーん…、やっぱり、
「…ッ、」
男はますます動揺を隠しきれずにそのまま口ごもり、その様を見下ろす城崎さんはさらに酷薄な笑みを浮かべた。
「今日は一人なんだね。いつものお仲間は?」
「…、」
「あ。事務所に火をつけた時点で君は用無しになって、切り捨てられちゃったか」
「…だ、黙れっ!」
「群れてないと落ち着かないから、前の繋がりとは別のところと関わりだしたってことかな…?」
愚弄するようにせせら笑った城崎さんは、私の腕を掴んだままの男の手に視線を一点集中させる。
「見た感じ、今もつまらないことしてるんだね…。女の子にモデルスカウトだとか嘘ついて、売色させようとするなんて外道極まりない。そういうのやめろって何度も言ってるのに、いつまでも懲りないね。ほんとに君ってバカだなあ」
「っ、…るせえんだよっ!!」
今にも噛みつかんばかりに凄む男に、城崎さんは落ち着き払ったままで肩眉をピクリとだけさせる。
「……」
そして、鋭い眼光を湛えたままゆったりとした動作で、工事現場の片隅に置いてある1メートルほどの角材を一本掴み取った。
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「ごめん、ちょっとだけ待っててくれる?」
「分かりました」
「この辺りはあまり治安が良くないから、車から出ないで待っててね」
「…はい」
幼い子どもに言いつけるように人差し指を立てたその仕草に、思わず笑ってしまいながらも頷いた。
︙
しばらくの間、パソコンのキーを叩くことを繰り返していたが、何気に手を止めて窓の外に視線を投じる。
少しだけ車のサイドウィンドウを下げれば、すっきりと濁りのない冷たい空気が顔に当たって、ヒュッと身が引き締まった。
「…、」
治安が良くないと言われた周辺一帯を、緊張気味に見澄ます。
古いビル街の一角であるこの場所は、工事途中の城崎さんの探偵事務所以外、どれも寂れた風情を醸し出しているように見えた。
どこから飛んできたのか、木枯らしに舞う敗れたポスターの切れ端。
年期を感じさせるそれぞれの店舗の店看板。
なんだか、それらが物珍しくて。
「——…」
けれど、車窓から見上げた青空はどこにいても同じ青さなんだな…と、ぼんやりとそんなことを思う。
「……、」
(ここは、前所長と城崎さんの絆が育まれた、思い入れのある場所なんだろうな…)
そんなことが脳裏をよぎったときには、自然と助手席のドアを開けて地面に足を降ろしていた。
「…、ん……」
舗装の一部が剥がれた歩道を踏みしめてゆっくりと伸びをしながら、広い冬空をまた仰ぎ見る。
城崎さんの事務所に視線を向けると真新しいカーテンウォールの窓に空の青が映えて、
工事も順調に進んでいるのが見て取れた。
「…お嬢さん」
「……、?」
背後からの人懐っこい声に振り返る。
「どうも、こんにちは」
見知らぬ若い男がニコニコしながら立っているその姿はどこか異質で。
その飄々としたどこか食えないような雰囲気はもとより、
くだけたように着こなしたスーツの胸元から覗くシャツは、普段あまり見ることのない奇抜な色柄のもので、それがまた違和感を増幅させていた。
「お嬢さん、モデルの経験とかってありますか?」
「…ないです、興味もないので」
「それはもったいない! 綺麗な方だから、今までにもスカウトの経験があるでしょう?」
「ありません。 別に普通のルックスですけど」
(いきなり何なんだ…)
ツンと顔を逸らして、舐められたくないという自己防衛の表れから、強がるようにコートのポケットに手を突っ込んで眉根を寄せる。
けれど、男は臆する様子もなく、『ハハハッ』と軽快な笑い声を立てて私の前に一歩踏み込んだ。
「良かったら、ちょっとお茶でもどうですか? 私どもはモデル事務所のものでして、モデルスカウトをやってるんですよ…、向こうのお店でゆっくり話しませんか?」
「お断りします」
「まあそう言わずに…、ちょっと話を聞くだけでも、ね?」
不自然にヘラヘラと笑いながら、男はぬっと手を伸ばし私の二の腕を掴んだ。
「…っ、やめてくださいっ、」
「まあ、そう言わずに」
「ッ…、」
(…怖い…っ)
男の顔に広がるギラリとした鈍色の翳りを目にして急速に背筋が凍る。
恐怖から逃れるために、必死で手を振り解こうとした刹那、
「…なにやってるの?」
男の後方から、端正な顔立ちを冷徹な色に染めた城崎さんが現れた。
「…チッ、連れがいたのか」
振り返り、城崎さんをチラッと見遣った男はいきなり態度を豹変させると、苛立ったように舌打ちをする。
「ああ、やっぱり君か…」
「は? なんだよアンタ」
「あれ? しばらく僕がここにいない間に、もう忘れちゃったの?」
「…はあ? 俺はアンタのことなんて…、」
「下っ端の君には、解像度の悪い画像でしか僕のこと知らされてなかったのかな?」
「……、」
「前にも、君のこと…蹴散らしたことあるんだけど」
「……! もしかして、おまえ…、」
「うん。思い出してくれた?」
「おまえは、あの探偵事務所の——」
男は城崎さんの工事中の事務所を高く指差すと、明らかに動揺し始めた。
「そうだよ、久しぶりだねー」
「おまえ…、あのときの火事に懲りて、居所失ってどっかへ消えちまってたんじゃねえのかよ!」
「ふーん…、やっぱり、
君たち
の腹いせか」「…ッ、」
男はますます動揺を隠しきれずにそのまま口ごもり、その様を見下ろす城崎さんはさらに酷薄な笑みを浮かべた。
「今日は一人なんだね。いつものお仲間は?」
「…、」
「あ。事務所に火をつけた時点で君は用無しになって、切り捨てられちゃったか」
「…だ、黙れっ!」
「群れてないと落ち着かないから、前の繋がりとは別のところと関わりだしたってことかな…?」
愚弄するようにせせら笑った城崎さんは、私の腕を掴んだままの男の手に視線を一点集中させる。
「見た感じ、今もつまらないことしてるんだね…。女の子にモデルスカウトだとか嘘ついて、売色させようとするなんて外道極まりない。そういうのやめろって何度も言ってるのに、いつまでも懲りないね。ほんとに君ってバカだなあ」
「っ、…るせえんだよっ!!」
今にも噛みつかんばかりに凄む男に、城崎さんは落ち着き払ったままで肩眉をピクリとだけさせる。
「……」
そして、鋭い眼光を湛えたままゆったりとした動作で、工事現場の片隅に置いてある1メートルほどの角材を一本掴み取った。
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